フレンジリアの空は、まだ日は暮れていないというのに薄暗く、雨がとどまることなく、
一定の調子で降っている。さらに、町なかを行く者はひとりとしていない。ここが観光地
であるとは、だれが思えるだろう。
宿の一室では、身に着けている服や身体を雨でぬらしたままの彼女が、レオンにもたれ
かかるかたちで眠っている。そうは言っても、彼のほうも疲れがたまっており、座ってい
るのがやっとといったところであるため、寝台を背にしてようやく互いが互いの身体を支
えあっているといった状態だ。
彼女は、あのとき、力を使い果たし、その場で再び寝込んだのだ。身体を動かす力の残
っていた彼らが、あてがわれていたこの部屋まで、彼女を運んできたというわけだ。
間もなくして、部屋の扉がひらかれる音がした。アレクが、なにかを手に持って戻って
きた。
「毛布を借りてきた。これをかぶっておけ」
レオンは、アレクから毛布を受け取ると、できるだけ彼女の身体を動かさないようにし
ながらかぶせた。
そして、ため息であるのか、それともほっとしたための一息なのか、どちらともつかな
い息をはくレオン。アレクも、彼らを上から眺めながら息をはく。
彼女の体調は、今のところ悪化している様子はないが、ぬれたままにしておくのは気が
引ける。そうは言っても、彼らからすれば、男である自分たちが着替えさせるわけにはい
かないといったところである。そもそも、彼女は、初めから荷物のひとつも持ち歩いてい
なかったようなのだ。その初めて会ったときのことを含めて、彼女にたずねたいことも幾
つかあった。
「…………ん」
そのとき、彼女が目を覚ます気配がする。レオンは、ぱっと彼女のほうを向く。その反
動で、彼女の身体を倒してしまいそうになるが、寸のところで両肩をつかんでことなきを
えた。
目を覚ました彼女と、目が合ったレオンは、
「え、あ、えっと。大丈夫……?」
なにもやましいことはないが、しどろもどろになりながらそうたずねる。
「はい、なんともありません。ご心配をおかけしました」
彼女はというと、この状況を不審に思っているふうでもなく、どこまでも澄んだ声で、
落ち着いた調子で受け答える。先ほどの魔物と戦っていたときと同じように、凜とさえし
ているようだ。
「またここまで運んでくれたのですね。ありがとうございます」
精巧な造形をたたえているようでありながら、ごく自然な笑みで述べる彼女。もしもあ
ずかり知らないうちに着替えさせられていたとしても、ほほえみながら礼を述べるに違い
ないと思わせるほどに。
「タオルではふいておいたけど、ぬれたままだし、寒くない?」
「ええ。寒がるほうでもないですし、ずぶぬれでも、それほど気にならないほうですよ」
そう答えると、今度は窓の外を見やりながら、
「それに、あの雨を降らせたのはわたしですから」
だから心配は無用であると言うように。なだめるかのようにそう告げる。
きょとんとした様子で目をしばたたかせるレオン。
「どうりで強まったり弱まったりしないわけか。天に働きかける魔術、知識としてはあっ
たが、見たのは初めてだ」
不意にそう解説したのは、先ほどからたたずんだままでいるアレクだ。
レオンは、ひとしきり感心しきると、そぼくな疑問を口にする。
「もしかして、火を消すために?」
彼女は、緩やかな調子で首を横に振ると、
「火は、ナイトメアを倒した瞬間、確かに消えました。それに、あれは水で鎮火できるも
のではないのです」
ならばなぜといったふうに、レオンは首をかしげる。
「火がいきなり鎮まった理由を、大勢の人々に説明して分かってもらうことは困難だと判
断しました」
だから、雨が降ったために火が消えたと思わせようというわけだ。彼女の声は、相変わ
らず澄んでいるようではあるが、どことなくため息まじりである。
「それじゃあ倒れてしまうのも無理ないね。とにかく、ゆっくり休んでよ。後で聞きたい
こともあるから」
「さっきも言ったとおり、体調と気力ともに、もうなんともありませんよ。だから、遠慮
なく、なんでも聞いてください」
「いいのか。術者というものは、能力を発現しているあいだは、精神力を消耗してるもの
だと認識してるが」
しかもこれ、避難したおおかたの者が戻ってくるまで、つまり、この町に雨が降ったと
いう事実を、全員が認識できる域に達するまで発現させつづけるつもりだろう。アレクが
そうくみとる。
「大丈夫ですよ。もちろん楽ではありませんが、わたしにとっては、それほど負担のかか
らない術ですし」
それに、会話をしているほうが、気は楽ですから。彼女はそうつけくわえた。
「それじゃあさ。さっきのナイトメアってやつ、火の魔物だったのに、どうして水が効か
ずに火が弱点だったの」
レオンがそうたずねたとき、アレクは、力が抜けて転びそうになったところを踏みとど
まって、
「ほかに聞いておかなければならない、肝心なことがあるだろう」
「ああそうか。まだ名前をきいてなかったね」
そっちでもないと言いたいところであったが、アレクは、調子が狂ったためか、声を発
するひまもなく、ため息をついた。
「僕はレオン。こっちがアレク」
どこまでも無邪気な調子であるレオンに、アレクは、もうなにも言わず、彼の思うまま
に話をさせておくことにした。
そして、彼女は、おもむろに立ち上がると、
「わたしは、トワ・ヴェレーナと申します。どうぞよろしくお願いいたします。レオン様、
アレク様」
恭しく、頭を下げて述べる彼女、トワ。
「わああ、ちょっと待って」
すると、そう大きな声を出すレオン。トワは、そんな彼を、不思議そうに見つめている。
「様って付けられると、むずかゆいからさ。レオンでいいよ。僕も、トワって呼ぶから」
そして、どことなく強引な調子でそう勧める。
「そうだな。あまりかしこまっても話しにくいだろうから、俺もそれがいい」
レオンの場合、城で生活していた頃には、そういった敬称で呼ばれることがほとんであ
ったためか、なおさらそう思うのだろう。もちろん、王子の身の上であることを明かして
はないという約束ごとがあるため、そう説明するわけにもいかないのだが。
「わかりました。レオン、アレク」
一方、彼女は、一寸のちゅうちょもなく、先ほどと同じ笑みを浮かべて承諾した。あま
りにも突然であったためか、レオンは、答えるひまをなくしてはにかむ。
アレクは、そんなふたりの様子を、やれやれといった様子で眺めていた。
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