+. Page 097 | 雨降る夜の亡霊 .+
 さて、次は八からひとつくだって七に当たるところの話をしよう。
 先ほどの天の話からいってんして地、砂は地……ではなく、すなわち土についてだ。す
なわちは即ちと書き、色即是空のそれである。
 土を象徴するとされる星のことをサターンといい、デーモンのこと、つまり悪魔を意味
するサタンの語源となったものである。リターンという響きに似ているが、転換点という
意味では間違いなかろう。
 さらに、サタンを象徴するものは山羊であるが、こちらは八の木、つまり七とのつなぎ
であるヤギが転じたのだと推測する。
 とりあえず、羊にメリーさんと掛けてサンタで覚えておけばいいだろう。
 しかし、どちらかといえば、アクマであるのならクマで熊となるように思える。
 久万と書いてクマと読む字もあるのだが、これはとこしえを表すものであり、つまりは
死んでは生まれ変わることを繰り返す、輪廻転生の地を示唆しているということである。
 ついでに「阿」という字もクマと読める。
 熊に遭遇した場合は死んだふりをしてやりすごせと言われるようになったわけには、熊
は生死を左右する死神のような象徴として印象づけられた背景があるのだろう。ここには
もう獲物はないといった意思表示であるというわけだ。
 熊といえば、ぬいぐるみの定番であるが、これは熊の愛らしさをすりこむ意図があり、
そこから定着したものと思われる。あの世や死神という意味での熊を拒絶させないように
するために。
 熊は、あの世への入口を象徴しているともいえるわけである。はるか北にある世界の果
て、氷の大地にも生息しているのは、そこに由来しているのだろう。
 そして悪魔といえば、門構えに音と書いて闇が連想される。音の源水でもある次元、現
世と死後の、無限の円環を描く、世界の始まりの場所へと通じる。
 ちなみに、この闇という次元は、現世より下であると思わせて上なのである。地に影と
して映っている世界であるといったところだろう。
 闇のなかにこそ真実が潜むというのも、その意味では間違いではないといえる。
 実際には、夢や希望といったものでいろどられた色眼鏡がなくなったことによって、奥
のほうまで見とおすことができるようになったというところであるが。霧が晴れたという
言葉の意味もそこにあるのだろう。
 一方で、さらにその奥を見とおすためには、今度はその闇が邪魔であるということにな
る。その意味で悪であると定義するならば、それもひとつの見方である。闇を切り裂くと
いう言葉も、その意味では妥当であるといえるか。
 ここでいう闇という領域は、いわば死後の世界と同義である。現世よりは増しな場所で
あるだろうということで、ここを天国だとする洗脳が施されるというからくりである。こ
こより先の世界に目を向けさせないようにして、輪廻という永遠の循環に閉じこめるため
のからくりでもあるわけだ。
 死後の世界とは、亜空間のことであるのだろう。
 亜空間とは、同一の空間にありながら独自の法則を成す領域のことをいう。肉体を空間
に置き換えていうと、亜空間は俗にいう精神世界のこととなる。
 あくうかんで「あく」と「くう」なのである。悪が精神を食らうとか、悪が巣食う場所
とかで覚えておくと分かりやすいだろう。死後に霊魂を救うと見せかけて、スプーンです
くうようにして食らうとでも。
 それでは、こくうについての話に移る。そう、別名アカシャである虚空だ。
 虚空は「こ」が「くう」のである。食ったからこそ、すべてのものが存在するといわれ
たゆえんでもあるのだ。ここでいう「こ」とは子であり、無垢を象徴する赤子である。
 似たような音をした言葉にコクーンというものがあり、繭という意味である。とりわけ
揺りかごのことを指しているといったところか。
 このコクーンの綴りというのが、ココアやココナッツといった、そのココと同じ文字か
ら始まるのだ。
 Cは三番目の文字であり、Oは十五番目であって、その数値を足すと十八となる。六に
三を掛けた数である。
 ちなみにココナッツは椰子の実のことであり、ヤシはカカオの木の日陰となる木である。
 ヤシを香具師と書くと、なんとも香ばしい響きである。
 心象としては常夏であり、そこから連想されるものは太陽であるだろう。パラダイスな
どというものは、おもにそういった光景が思い浮かべられ、常世などという言葉もそこか
ら派生したのだろう。
 海すなわち水を月と一緒に語るならば、大地はじりじりと焼く太陽と同義であるという
わけだ。
 熱さが行きすぎると、クマを通りこしてマグマとなる。コクが出てどろどろとした泥に
なるというわけである。さらに進むと火山灰であるというわけだ。
 そしてコクみという言葉は、案外そのコクからも来ているのかもしれない。
 人生についていえば過酷のコクであり、食事となると穀物のコクが必ずといっていいほ
どついてまわる。
 ほかには、国のコクがあり、国境などというのも案外ここから来ていると見える。
 こくんとなると、首を縦に振ることをいい、なにかを捧げさせる響きとなる。
 はいという返事と同じ意味合いであり、おもに炭素からなる、あの灰になるまで捧げる
という響きになってしまうのだ。高いところであるハイの領域まで届けさせる音でもある
のか。
 炭素といえばダイヤモンドの原料であり、宝石として神とやらに献上するという、合意
のない誓約に似た状況ではないだろうか。宝石の定番がダイヤモンドとなっているわけは、
なにもいちばん硬いからというだけではないだろう。
 その宝石言葉というのが、純愛、清浄無垢、永遠の絆、調和、不屈などといったもので
ある。それらの意訳は、なにも知らないまま輪廻のなかに閉じこもっていろだとか、たと
え苦しめられて搾取されたとしても神を崇拝したままでいろだとか、そういうことなのだ
ろう。
 鉛筆の芯である黒鉛も、この炭素からできている。用途は言うまでもなく紙になにかを
書くところにある。見方によっては、紙もとい神に炭素を捧げていることと同じである。
 むしろ、そうさせることによって、気づかれることなく捧げることに同意させられてい
たりするのだろう。なにかにつけて答案用紙や契約書などといったものが氾濫しているの
はそのためであるといったところか。
 特に、書類に使われる印鑑と、それに用いられる朱肉はもともと血を意味している。
 ちなみに昔のそれは硫化水銀を昇華させたものを使っていて、現在でも少し残っている。
 話は戻って「うん」と言えば運ばせる音となり、いずれにしても現象としては同じであ
るといえ、日常での伝達の手段として使わずにはいられない言葉であるところがなんとも
ひどい仕様である。
 とにもかくにも、了承の意を伝えるたびに、このことを知っているのだと、心のなかで
となえることが重要であるだろう。
 さらに、一人称である「わたし」となると、わたすということにもなってしまう。
 おれであれば折れるという響きとなり、ぼくであれば木のボクである。土が人の精力や
記憶などといったものを吸い取るためのストローのような役割をしているものである。そ
れが泥に刺さっているような具合になればドロボウとなる。下僕などという言葉もこの辺
りから来ているのだろう。自分の手は汚さずに手下にさせて、露見した際のいかりの矛先
はそちらに向けようという寸法か。
 ときおり使われる「自分」という呼びかた、この字でさえ自を分けると書く性質の悪さ
である。
 そしてアイは、一般にいわれているような愛ではなく、いとしいと掛けて糸、つまり操
られることを同意させる音なのだ。
 次に二人称である「きみ」について。これは卵の黄身の音を踏んでいる。子宮のなかの
胎児であるともとることができ、つまるところ陸地であるのだ。大地を讃え、そこに捧げ
させようと来たか。きみといえば公の字もそう読むことができ、集合的無意識を想起させ
るおおやけであり、大焼けでもあるのだ。
 それで、あなたというのは、穴に落とさせる音である。穴の田で、田を言い換えると土
地だ。とち狂うという言葉が定着したわけも、本当はここにあるのだろう。
 ユーとなると、ゆうきりんりんで、ユーの木りんりん、輪廻のことをいう。
 ほかにも、呼び名である「くん」は、君という字がもととなっている。
「さん」であれば太陽のサンで、焼きつけるようにさんさんと降りそそぐ光のことである。
「様」はサマでサマー、夏であるというわけだ。
「ちゃん」だと茶を沸かすといったところであり、木のまとう色でもある。
 続いて三人称である彼や彼女、ヒーやシーについてである。
 これは、どちらも単純に彼方のことであり、いわばあの世へと向かっていく単語である。
 ヒーだと比で二あり、まだ輪廻転生の範囲である。そこを超えた先の、本当のあの世と
の境目となると、三でシーの領域となるのだ。
 ヒーは火で、シーは海だから水であると覚えておいて差しつかえないだろう。女は海で
あって産みであるというぐらいなのだから。

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