ここで、話は天へと転じる。天はウーラノスといい、裏の巣か浦の巣といったところか。
浦は入り江や海辺のことであり、あの世とこの世の境目を指しているのだろう。
それは、奪衣婆のエバでありイブでもある、地母神ガイアに通じているといえるだろう。
それを象徴する輪廻転生を無限の∞とするならば、数字で表すと八であるということに
なる。
水中の植物や生物の次に栄えたというのが爬虫類であり、ハチュウのハチを表している。
カイコという昆虫がいるのだが、貝の子というわけではなく、天に虫と書いて蚕となる。
九の域にある貝、その子どものことを指すには妥当ではあると言えるが。ちょうどティ
アマトとガイアの関係にも相当する。
その蚕というのが、脱皮をする際にまゆを作る。絹もそこから採取される。言わずと知
れた衣類の原料である。絹はシルクともいい、ミルクだと乳となる。
ここでいう虫として欠かせないのが、八本の足を持つクモである。性質は違うが、こち
らも糸をつむぐ存在だ。
くもの巣といえば、捕食するためのものであり、この場合は現世で死した霊魂を捕らえ
ることをいう。
もうひとつ、生まれ出た際に歩む道の、可能性を示しているともいえる。
くもといえば、ジョロウグモという種類のものがいる。数ある伝承としての存在を総括
していうと、糸で人間を操って動けなくして、しまいには食い殺すといったものである。
絡新婦と書くが本来は女郎蜘蛛であり、これらは女性である地母神を指しているからであ
るのだろう。
ちなみに、ジョウロといえば如雨露のことで、植木などに水を差すときに使う道具のこ
とであり、雨のように降り注ぐ仕様である。水が流れ続ける音をじょろじょろと言い表し
ているのも、そこから定着したのだろう。
くもは雲でもあり、雲の上の人というのは天の高いところにいるかのようなというたと
えである。雲をつかむようなというのは、こうした未知の世界に届かせるかのようなとい
ったたとえであるというところか。
雲は、水が蒸気と化して天にのぼり、雨のもととなるものである。天を「あま」や「あ
め」と読むようになった背景はそこにあるのかもしれない。
雨が降る仕組みは輪廻にたとえることができる。
ここでカイコといえばもうひとつ、一方的に労働の契約を解除されることを解雇という
のだが、生まれては死ぬことを繰り返す輪廻転生にも当てはまるといえる。まさに了承を
得ずに追い出すといった状態だ。了解を得ているにしても、そうさせるように仕向けたと
見るべきだろう。
ついでに、昔のことを懐かしく思うことを意味する懐古という言葉があるのだが、生ま
れてくる前にいた、その場の響きと掛けているのかもしれない。
それでは、雨粒となることが、天界から追放されて地上に生まれることだと思いがちで
あるだろうが、それはどちらかというと死にゆくときの様子を表している。
天のほうが地上に相当し、雲が生命を表していて、その流れが生きる過程となる。風運
びというのがまさしく運であるといえる。
雨粒となる様子というのは、生きているときに得た力や記憶などが分解されていき、大
地に奪取されていくことを表しているのだ。言うまでもなく、ここでいう大地は天界のこ
とである。
水といえば海で、海の神と書いてワタツミと読み、綿を摘んだり紡いだりする響きであ
る。見方によっては雲も綿であり、もとはといえば海であるためにワタツミと呼ばれるよ
うになったのだろう。
綿菓子というものも、もとは水あめであり、できあがるまでの手順も、雨が降るまでの
仕組みと似ている。おもにザラメと呼ばれている砂糖を回転釜で熱して溶かし、はしなど
の棒でかき集めて作られる。
実際、天国という名の赤子からすれば、生命たちのことは綿菓子としか見ていないのだ
ろう。釜は子宮に相当し、回転は移り行く世を表している。
真綿で首を締めるという言葉があるが、対立であれ友好であれ生命たちをぶつからせ、
その挙句に死なせることから、そういわれはじめたのだろう。
ついでに綿はメンとも読み、これも服の原料である。メンといえば麺でもあり、長く伸
びている糸を示しているのでもあるだろう。これもやはり食べ物である。
メンタルという言葉は、そのままメンの樽ということになり、精神の貯蔵庫であるとい
える。
精神、言い換えると生命力や思考力などといったものを奪われたり散り散りにされたり
している状態がいわゆるメンヘラである。もとはメンヘルな人という意味であり、ヘルは
経るであり減るでもある。
ヘルにしろヘラにしろ、死後の世界を支配する女神のことであり、人と人をぶつからせ
て発火させ、その力を奪う首謀者であることには変わりない。
免と書いてメンと読む、謝意を表す「ごめん」というのも、その気持ちを引き渡す呪文
というわけか。その辺りは「ありがとう」に関しても同じであると言える。後者のほうが
気分は悪くないだろうが、結局のところ、後ろめたさをえさにしていることにも変わりな
い。
八熱地獄という、八つの形相をなす地獄があり、おもに炎で身を焼かれることをいう。
熱湯の入った大釜や、燃えている鉄の部屋などに入れられて、あまりの苦しさに泣き叫ぶ
という。まさに現世のことを指しているといえる。
この世は鉄て形成されている割合が高く、鉄は血液のなかでも重要な働きをする。
そうなると、日焼けや発汗の要因である太陽こそが地獄の炎であるといえる。なければ
生きていけなくされていて、神聖なものとされている、それこそが。
そして、地獄の最下層というのがが無間と呼ばれる場所であり、絶え間なく責め苦に遭
うことからいわれる。またの名を阿鼻といい、阿鼻叫喚という言葉もここから来ている。
さらにアビスに重ねてそういわれるようになったのだろう。
ちなみに現世は、無間地獄よりは増しな位置にあり、そこから見てここを天国と思わせ
る罠である。
この世に生まれることは祝福されるべきことという思想を助長させる一因であり、むし
ろそれこそが目的であるといったところか。
死んでは甦ることを繰り返す、不死鳥と呼ばれている火の鳥がいるが、それはそうした
輪廻の象徴として語りつがれてきたのだろう。
ところで、八に雲といえば八雲というものが連想される。ヤクモの雲のほうももちろん
であるが、ヤクの音が要点でありそうだ。
ヤクといえば、火にかけることをいう「焼く」をはじめとして、くさかんむりに楽と書
く薬のことである。
この場合は、幻覚や多幸感をもたらすという麻薬が挙げられる。多幸はタコウと読み、
米などを炊こうなどといってみたり、八本の足を持つたこなどで覚えてみたりするといい
だろう。
麻薬の原料は芥子という植物である。植物があの世とこの世をつなぐものであるとなれ
ば、それは幻覚などではなく、その麻薬を通じて、世界の別の姿を見ていることになりう
る。そして幸福であるというのは、現世よりは増しである、あの世の雰囲気を感じ取って
いるのかもしれない。
ついでに、麻に関してだけ言えば、植物から採取される繊維のことである。麻糸で織っ
た布を麻布といい、神事にも重用されている。
ほかには、舞台などで演じる役というのが連想しやすいか。舞台は部隊のことであり、
いかに生命たちを兵隊として従事させようとしているかが分かる。兵役とはよく言ったも
のである。
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