+. Page 098 | 雨降る夜の亡霊 .+
 亜空間や虚空に次いで暗黒について語るならば、要するにあんこであるということであ
る。
 おなかが空くという、空くの部分は、場合によってはアクとも読むのだ。食うという読
みも、空腹のクウから来たものであると見ていいだろう。
 あんといえば、まず外せないのがコクであり、穀であるもち米、つまり団子である。
 米が人の精神を言い表すものだとすれば、あんの部分は、さらにその上位を表すもので
あるということなのだろう。もちとあんで霊魂となるというわけだ。
 ちなみに、レイコンならぬレンコンは、ハスの地下茎が肥大したものであり、土にうま
っているものではある。穴のあいたレンコン。ハス、ハスハス。
 これは、もちももちろんであるが、まんじゅうにも当てはまるだろう。
 あげまんといえば、揚げまんじゅうのことではあるが、運気を上げる女性のことをいう
場合がある。この「まん」の部分は女性器のことだと思われるが、もとは「間」のことで
あり、間がよいという意味である。転生する際の地点を象徴する意味では、女性器である
というのもあながち間違いではないが。
 まんじゅうの例でいうなら、おしくらという名のつくものがあり、押し競といって数人
で互いの肩や背中を押し合う遊びがある。クラは蔵や暗い、食らうなどが連想されるが、
ただ単に押し比べということでもある。
 心象としては、錬金術でもあるともいえそうだ。人の個をなくさせ、おのれの宝石とす
ることを意味する。
 この歌の一節に、押されて泣くなという言葉がある。我慢しろ、これこそが当然の事象
だとする洗脳として残されたものなのだろう。しかしながら、体力や気力を消耗させ、そ
れがどこへ行くか知れないという意味では持ちこたえるつもりでいるほうがよい。
 あんまり押すと、あんこが出るぞ。あんこがでたら、つまんでなめろ。
 あんを奪い取れという誘導のようであるが、もしそのような事態になったら、その前に
自分で再び収めろという教えでもあるといえる。あんあんあん……。

 ところで、あんパンにまつわる歌で、ぼうが一本あったというところからはじまるもの
がある。
 忘我であるというところからはじまって坊がとか房がとか、望や暮雨などと言いたいと
ころであるが、棒のことである。このあとに葉っぱかなと続くことから、木のことである
と推測できる。
 さらに、葉っぱではなくかえると続き、かえるでもなくあひるだと続いていくのである。
この場合のあひるは鳥ではなく、血を吸うという蛭のことであり、暗にへびのことでもあ
るのだろう。
 葉っぱであり、かえるでもあるそれは生命のことを指す。かえるの天敵でもあるへび、
あひるというのが、それらを捕獲するということである。
 葉っぱではなくかえるであり、同時に葉っぱはかえるでもある。
 そうなると、かえるがあひるということになり、嫌な考えかたをするならば、もとは
同種の存在であったが、支配のために分断したといったところか。
 落ち葉の行方はというと、もちろん地であり、おもに虫のえさとなる。死後の生命は、
あの世にいる天使やら悪魔やらといった存在の食べ物となるというわけだ。
 そして、歌の続きはというと、六月六日に雨が降るのだという。
 雨が降るさまは輪廻転生を表していて、数字の六がふたつというのは、まさにあの世
とこの世のめぐりを示している。その六は、かえるの子でもあるお玉杓子に見立てるこ
とができる。お玉たまたま。ちなみに炊いた米をすくうものは杓文字という。
 その後、三角定規にひびがいくとなり、日々を過ごすことによって壊れていくといっ
た意味合いであるのだろう。三角というのは、この世にあの世、さらにその先に隠され
た世界との三つ巴を指しているといえる。
 杓子定規という言葉も、ここから定着したものであると思われる。
 さて、本題でもあるあんパンのことであるが、これはふたつとあって、豆は三つと来
る。あんの原料でもある豆。文字どおり豆乳の原料でもある。
 それこそが、二と見せかけて三ということを言い表しているのだろうが、ここは女体
のことであるのだろう。確かに棒が一本では子を現世におろすことはできない。
 豆乳のトウニュウという読みは、投入から定着したのだろう。
 最後に出てくるコックというのが料理人、錬金術師といったところか。

 梅雨の時期で連想するものといえば、おもにかたつむりであるだろう。
 かたつむりの殻は、自身の体から染み出た石灰であり、そのなかには臓器もあって、
血もかよっている。ちなみに歴とした貝類である。
 かたつむりに頭を出せということは、かごのなかの鳥がいつ出るかといったことと同
義であるといえる。
 かたつむりの別名はでんでんむしであり、マイマイとも呼ばれている。
 むしといえば、腹が減ると虫が鳴るとか、腹が立つと虫の居所が悪いとか。
 それはともかくとして、世界の構造は貝のように幾重にも重なっている。ついでに法
螺を吹くという言葉も、法螺貝から来ている。
 現世は、貝でいえばあわびといったところであり、阿鼻と書いてあびのふたつほど上
層に位置するといったところか。穴ふたつというのはそういうことだろう。
 この世はすでに煉獄であり、アビスであり、阿鼻の巣であるのだ。
 下に行けば行くほど面積が増し、時空をともにするとなれば流れも速くなる。つまり
ゆがみが激しくなるのであり、安定しているなどというのは思いこみであるのだ。これ
では正気を保つなどということは困難であり、むしろ争わせることで力を搾り取ろうと
するならば、はじめからこのような仕様にしていたということだ。
 簡単にいえば、渦であるということなのだ。身近なものでいえば洗濯機だ。
 そもそも、川で洗濯しているおばあさんというのが奪衣婆を示唆している。
 衣服をはぎ取るというのは、生前の記憶などを奪い取ることであり、そういう意味で
の洗濯なのだ。
 洗濯ならぬ選択は、生前の行いによって地獄か天国か、行き先を決められるというこ
とが本当の意味である。いわば贖罪ならぬ食材の仕分けだ。人生の選択をしたのは自分
だろうという自己責任をあおるのも、この辺りの事情をさとらせないための教訓といっ
たところだろう。
 とりあえず、選択の岐路と掛けて、洗濯したから着ろなどと言ってみる。生きろのキ
ロでもある。
 生きて実りをなせというのは食料になれということであって、生きて輝けというのは
力を放出しろという意味である。
 賽の河原というものの対象が子どもであるというのは、熟れてないうちから収穫され
てしまったから、ここで敬虔もとい経験を積ませて熟れさせようという魂胆だろう。親
より先に死んだからというのは、罪悪感をあおるための詭弁なのだろう。
 石女という言葉もあり、うまずめと読み、不生女という字から来ている。生前に子を
なさなかった女性が地獄に行くというのは、食料が生産されなかったことに対する八つ
当たりであり、その女性たちがまだ持っている力を振り絞らせるためである。
 もはや、そのようなことに付き合う必要などない。偉ぶっただけの弱虫やら動物やら、
テラという胎児やらの理不尽な遊戯に曝される道理などないのだ。

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