その夜。彼の見た夢は、またもやがれきの散乱した墓所の光景であった。
暗く、赤みのかかった空間。この奇妙に鮮やかな色が、吉兆であるのか凶兆であるのか
は分かりかねるが。
やはりというべきであるのが、彼と向かいあうようにしてたたずんでいる「彼女」の姿。
無愛想ではないものの、冷静さをまとった雰囲気も以前と変わらない。彼女のことを知っ
ているという確信がありながら、だれであるのか、いまだに見当をつけられずにいる彼。
彼女の装着しているもので、最も目につくのが、身の丈ほどある槍。しゃれたつくりを
しているわりに、刃先は切れないものなどないと言わんばかりに鋭利である。遠目から見
れば、おとぎ話のなかに出てくる鍵のようでもある。彼は、しばらく見つめていた後、な
にを思いたったのか、それを借りようとする。
すると、彼女は、それを察したのか、もとより貸し与えるつもりであったのか、彼が声
を発するよりも先に槍を差し出して、
「これを持ってゆきなさい。これからの夢路にはきっと役立つでしょう」
淡々とそれだけを告げ、彼が槍を手にしたのを確認すると、用は成したと言わんばかり
に、徐々に姿を消していった。
彼女の姿が全く見えなくなったと同時に、空間はゆがみ、色彩を失っていく。
突然のことが続いたためか、おどろいているひまもなさそうに、ただ立ちつくしている
彼。気が付くと、景色はうって変わっていた。今、彼が立っているのは、壁が不規則に建
てられているため不定形な通路の上。あの悪夢が訪れる場所だった。
ぴちゃぴちゃと、はねるような水の音。その水滴が、彼のひたいに落ち、顔の表面を伝
う。涙か海水のように塩辛い。それをすくい取るようにして鼻筋に指をやり、その指先を
見やる彼。見たところはただの透明な液体であった。血ではないようだ。
……い。――た、い。…………た……い。
そのとき、とぎれとぎれに聞こえてきた、少女のか細い声。彼が最初にこの場にいたと
きのように。ここかどこかにいたいのか、痛いのか。それとも、なにかの願望を示してい
るのだろうか。とにもかくにも、その声を聞いた彼は、はじかれたかのように、あてどな
く走りだす。
走っても走っても、声のぬしのもとにたどり着くどころか、この入り組んだ迷路を抜け
出せる見込みもない。
彼はいったん立ちどまって、先ほどから手にしていた槍に目をやり、それを振るう体勢
に入る。敵がやって来たわけではなく、ただ立ちはだかっている壁に向けてだ。もちろん、
このようなもので穴を開けるどころか、ひび割れさせることも難しいことは承知のうえで
あるのだろう。それでも試してみないわけにはいかないのは、生来よりの彼の性であった。
間を置かずに、壁に向けて槍を振るうと、幾らかの手ごたえはあった。傷をつけること
はできた。予想しえたとおりだった、その後に起こった異変を除いては。まるで自身が切
りつけられたかのように、痛みに耐えている様子の彼。彼自身に外傷は見受けられないが、
皮膚を引き裂かれた感覚が彼を襲っていた。
それでも彼は、槍を構えなおすと、さらに壁に向けて振るう。そしてまた皮膚を引き裂
くような激痛。いや、傷は負っていないのだから、これは幻覚だ。そう思い直しては繰り
返す。そのはずではあるのだが、彼が行動を重ねるにともなって痛みも積もっていく。
あまりの痛みのためか、彼の視界は、霧が掛かったかのようにぼやける。遠のいていく
といったほうが適切か。これは、夢から目が覚めるときの状態であった。引き戻されてい
く、彼の意思など知ったことではないと言わんばかりに。
レキセイが目を覚ましたときにいた場所は、ホテルの一室に置かれている、それも相当
に豪華な意匠が凝らされた長いすの上であった。それにも関わらず、彼は、寝場所があれ
ばかまわないといったふうである。
この部屋に置かれている二基の寝台は、リーナとアルファースがそれぞれ使っているた
め、彼がそこで眠ることとなった。もとは男女で分かれて部屋を取っていたのだが、真夜
中に起きたできごとを考慮すれば、彼女をひとりで部屋に寝かせておくには、不安が大き
かったのだ。
上体を起こして、窓の外を眺めるレキセイ。まだ夜が明けようとしている段階であった。
長く眠っていたものだと思っていたようだが、そうでもないと知ると脱力する。
レキセイが、ふとリーナのほうに目をやると、彼女は深く眠っているようだ。無理もな
い、彼は、そう言わんばかりに、深く息をはいた。続いてアルファースのほうに目をやる
と、彼もよく眠っているようだ。
そういえばと、レキセイは思い起こす。アルファースは、リーナを連れた自分が戻って
くるよりも前の時刻には寝入っていたが、不在だったことを疑問に思っていたり、はたま
たさがしに出たりはしていなかっただろうか。用事を終えて早々に眠って、特に気にして
いないのならばいい。もしも前者であったならば、後で説明しておかなければいけないと。
レキセイは、すっかり目がさえて、寝なおすことは考えにもいたらずに、部屋の外へ向
かおうとする。ふたりを起こさないよう、足音を消して。扉も例にもれず贅沢なつくりの
ものであり、ここが出入口であることは、見まわすまでもなく一目で分かるほどである。
外がざわめいている様子はいっさいない。ホテルのなかの通路も、レキセイが歩いてい
る以外には音もなく静かだ。まぶしいほどにともされている電飾の明かりがさらにそう思
わせるのかもしれない。
時刻はまだ夜の明けがたなのだから当然ではあるのだが、数時間前に繰りひろげられて
いた小競り合いの影響は及んでいないのだろうか。大半の者が寝静まる深夜のことであり、
もとより不夜城と呼ばれる区域が点在しており、多少の騒がしさは意に介さないものなの
か。一安心であるような、複雑な気持ちであるような、どちらともとれるため息をつくレ
キセイ。
ときに、娯楽場の営業はしているのだろうか。いや、どの時刻でも開いてはおり、レキ
セイの目的は賭博ではない。そこを経営している、エナという女性に用があるのだが、今
の時間帯でも彼女はいるのだろうかという問題だ。日付が変わる手前の時刻に会いに行こ
うとしたのだが、向かっている途中で闘争を仕掛けられ、ひと段落ついたところでここ、
ホテルに戻り、今まで身体を休めていてそれきりだった。
ひとまずいってみようと考え、外へ向かおうとしたところで、
「おはようございます、お客様。もしや、よく眠れなかったのでしょうか」
支配人であると思しき男性に声を掛けられた。レキセイが、彼のほうを振り返ったとき、
――派手な音がしそうな勢いで転んだ。
「おや、ワックスを掛けすぎたようですね」
落ち着いた調子で言う支配人に、起きあがったレキセイが目を向けると、
「な……、どうしてあなたがここに」
状況の把握が追いつかずに、困惑した様子でたずねる。
この支配人、年の頃は成人する手前ほどであり、レキセイと同じぐらいである。顔つき
のほうはレキセイとは違うものの、体つきは酷似している。髪型も、色が違っていること
を除いては同じようなものだ。つやめく漆黒の髪。彼こそが、レキセイを夜討ちしようと
した張本人である。
「どうしてもなにも、ここのオーナーに、支配人として指名されたのですが。ああ、あな
たがたがチェックインしたときの支配人は、わたくしの変装ですよ」
支配人らしく口調そのものは丁寧に述べる。ちなみに、あのときに支配人の横にいた女
性は、彼の姉であった。変装はその姉によるメイクアップであったのだという。
「でも、変装を解いたままでオーナーに見つかったとき、どう説明するんだ?」
レキセイは、問題の焦点が合っていないような問いかけをする。
「問題ない。オーナーもエアリスの構成員だ」
隠そうとする様子もなく、世間話でもするかのように答えられた。さらに困惑するレキ
セイ。
「告発してみるか。寝泊りする場所がなくなれば、ここ、リーゼフの経済状況が傾くどこ
ろか、よそから来た人々は混乱し、最悪の場合は戦乱が巻き起こるだろうな」
挑発しているふうでもなく、事実を淡々と述べている様子だ。そのときはそのときだと
言わんばかりの余裕さえ見受けられる。
「いや、オーナーの事情は分からないし、経営も今まできちんとしてきたのなら、俺がど
うこう言う理由もないけど」
「オーナーがというよりは、昔、エアリスがうまいこと取り入って買収したんだと。われ
われにとって、資金繰りにもなるし、この土地や、ここに住まう人々の気風も申し分ない
とのことだ」
レキセイは、意味を解せないといった様子で目をしばたかせる。賭博などを目的とした
旅行者も少なくなく、資金の調達に関しては分かった。しかしながらこの土地の気候は寒
々としており、治安に関しては、表向きはともかくとしても、問題がないとはいえない。
国境の付近に位置しているため、住人たちは、自覚はなくとも緊張をしいられているのだ。
「だからこそ好都合なんだと。微妙な所であるだけに様々な人間が集まりやすい。なかで
も、世の中を変えうるほどの力か素質を持った者たちは必ずいるだろうとも。あわよくば、
われらの同志として迎える算段だ」
レキセイがいだいた疑問を読み取ったかのように答えた彼。特に反発する気もないよう
だが、賛同しきっている感じでもない。
リーゼフには裏社会の事情に通じている者が多数いるため、世の闇の象徴ともいえるエ
アリスが潜んでいるとは夢にも思われにくい。ましてや、親切な接客を要する、ホテルの
従業員であるなどとは到底思えないだろう。
「そういう意味では、教団の連中だって、俺たちのように、どこかに潜んでるかもしれん」
彼らにとっては、監視する意味合いのほうが大きそうだが。そうも付け加えて。
カーナル教団からしても、自分たちがこのような地に滞在しているとは思われにくい点
では都合がいいのだろう。
厄介であるといえば、自分たちの存在が、先方に感づかれているかもしれないというこ
とだ。それは互いが互いに思っていることだろう。両者は、理念こそ正反対であるものの、
手口が似通っている。そうであるからして、考えを隠し通せるというほうが無理があるの
だ。表向きはまったく違うものであるからこそ、ときに同じかたちで現れたり、手に取る
ように分かったりするのかもしれない。
そうなれば、見えないところでの縄張り争いは避けられない。人の思惑と思惑がぶつか
り合うのは、この地の宿命であるというのか。
「――さて、話しすぎたな」
彼は、そう前置きしてレキセイを見やると、
「もう時間がない。今すぐ一緒に来てもらう」
堂々とした様子で言い放った。
レキセイは、緊張が走ったような面持ちで、彼をじっと見ていた。
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