+. Page 057 | ディルト・リーゼフ編 .+
 きらりと、鋭く光るやいばが、すばやく十文字の軌跡をえがく。
 死してもなお、切られていく肉。かの者の手から腕へと伝っていく赤。
 彼は、自身に付着した返り血を気にとめることもなく、その肉片を投げ入れる。水のた
たえた所へと。びちゃびちゃと、高く鈍く、悲しげな音を奏でながら。次第に、赤く、赤
く染まっていく。

 場所はホテルの厨房。先ほどまでフロントのほうにいた彼がそこにいる。白を基調とし
た料理人の制服が、黒い髪である彼の姿を映えさせる。今しがた、トマトに十字の切り口
を入れ終えたところだった。その水分が手に付着したが、気にした様子もなく、次に炒め
た野菜や水の入ったなべのなかにソーセージを切って入れた。彼は、トマトスープを作る
ための下ごしらえをしていた。
 そして、もうひとり、紫の掛かった銀の髪をしている彼、レキセイがいた。彼は料理人
ではないが、手伝いを命じられて連れてこられたのだ。フロントのほうでその彼と話しこ
んでいたため、客人に出すための朝食の準備が遅れそうだからだとのことだ。
 ちなみに、黒髪の彼も、料理人というわけではないが、接客と調理の腕を買われて、時
折、一挙に仕事を任されることがあるのだとか。
 レキセイは、指定されたとおりに、幾枚かの皿に野菜類を盛りつける作業を終えると、
その黒髪の彼のほうを見やる。
 彼は、息をつくひまもない様子で、先ほどのトマトをフォークで突き刺したものをふた
つ手に持ち、別の加熱器具のほうへと向かう。火をつけると、それを左右の手に片方ずつ
持って同時にあぶりだした。まんべんなく火に当てるようにしながら。しんなりとしてく
ると、水を貯めて置いてあった容器のなかに入れて冷ます。柔らかくなっているはずのそ
れらは、彼がふれても、表面のかたちが崩れることなく、皮をむいたことで赤みとつやが
増したようでもあった。そこまでの動作を終えると、レキセイのほうを振り向いて、
「心配しなくとも、毒を盛るようなことなどしない」
 特に機嫌を損ねたようでもなく、たわいない話をするかのように言う。そもそも、たと
えなにか目的があるからだとしても、飲食物に毒が混入していたことが発覚すると、ホテ
ルの評判が落ちて営業に支障を来たすどころか、そのうち結社エアリスの関与も感知され
るだろう。そんな危険の度合いが高いことなどすると思うのか。事もなげにそう付け加え
て。
「いや、そんなことは思ってないというか、考えもしなかったけど」
 それからも彼は、幾個かのトマトを火であぶって水につけ、皮をむく作業を、息をはく
ように続けた。ときどき彼自身の口の周りに赤いものが付着して、指でぬぐうようなしぐ
さがうかがえるが、けがをしているわけではない。使いようのなくなった、むいたトマト
の皮を食べているのだ。必要な数量のトマトがそろうと、包丁でなかを割り、種をすべて
落とす。彼自身は意識していないようであるが、トマトに傷をつけることなく、しなやか
な指の動きで取り除いていっている。小皿の上に落としていっているのは、後で食べるた
めか。
 彼は、トマトをスープの入ったなべのなかに入れて煮こみはじめると、レキセイにその
番を任せて、とうふを手に取った。水洗いをして水気を切ると、片手に乗せ、もう片方の
手に包丁を持って移動する。彼が、とうふを包丁で切ると、レキセイが先ほど野菜を盛り
つけた皿に乗せていく。とうふは一箇所たりとも崩されたところがなく、傷ひとつ付けら
れたところもなく等分されていった。計ったところで、ほんの少しの誤差もなさそうだ。
野菜のいろどりと、ちょうど中央に置かれた、白い絹のようなとうふが、ひつぎに収めら
れた遺体と花を連想させる。
 また調理台のほうに戻ってくると、今度はりんごの皮をむく彼。むけていく皮を途切れ
させないながらも、ほぼ同じ幅を維持しており、彼自身の手の動きも一定の調子である。
皮のむけた後のりんごも、表面にでこぼことしたところはほとんどなく、遠目からは、薄
い黄色で塗られた、まるごとのものにしか見えないであろう。
 レキセイは、どことなく固まったような表情で、彼を眺めながら改めて思う。彼は本当
に器用な人なのだと。あの闘いで本気を出されていたら敵わなかったであろうことも。
「なんだ。まだなにか思うところがあるのか」
 そんな彼は、相変わらず、たわいない話をしている調子で問いかける。
「いや、器用だなと思ったんだ。それに、ここを任されるたびに、これだけの量を作るな
んて並大抵ではできないだろうし」
「ひとり分だけ作るよりは簡単だ。ふたり分ともなるとだいぶ違ってくるが、三人分のほ
うがさらに楽に作れる。まあ、作りやすさと労力を考慮すると、四人分がいちばんいいあ
んばいだ。手軽なものであれば、何人分になろうとも、大した変わりはないが。つまりだ」
 そこまで言いかけると、レキセイに、どことなく挑発するような笑みを向けて、
「手堅いものをひとり分なんていうのがいちばん難しいんだ」
 料理に限ったことではないが。そう付け加えて言う彼に、レキセイは、どうにか応答で
きた様子でうなずく。そしてふと思う。彼にいたっては、毒物を盛るようなことをせずと
も、正面から攻めかかったほうが確実に人を殺すことができるのではないかと。そのうえ、
隠すまでもなく、証拠を見つけられるようなことはないのかもしれない。もし彼が目をつ
けられたとしても、捕らえられるまでにはいたらないだろうとも。そう、逃げまわるまで
もなく、普段どおりの生活をしていたとしてもだ。彼に縄をかけることができるとすれば、
彼と同等か、それを上まわる力と覚悟を持った者だけであろう。根拠はないが、不思議と
そう思わせるものが彼にはあった。
 当の彼は、手慣れた動作で調味料を合わせはじめる。
 そして、スープができあがってきたのを確認すると、それで味をつけてしあげた。ぐつ
ぐつと音をたてて、いざなうように立ちこめる香り。
「なんなら味見してみるか?」
 不意に問いかけられて、目を瞬かせるレキセイ。もちろんさせてもらうことにした。
「……おいしい」
 ぽつりと、自然に出てきた言葉。
「俺も、こんなふうに作れたらいいんだけど……」
 レキセイが続けざまになにげなくそう言っていると、
「ならばレシピをくれてやる」
 彼の返事を待つことなく、メモ帳にさらさらと調理法を書き連ねていく。
「いいのか、その、従業員じゃないのに教えてしまって」
「別にこれ自体を商売にしてるわけではないからな。それに」
 そこまで言いかけたところで、調理法を書き終えた用紙を、帳面から切り離すと、
「情報をひた隠しにして、人をおちょくって楽しむ趣味が俺にはないというだけのことだ」
 レキセイの前に差し出して述べた。彼がそれを受け取ったことを確認すると、
「さて、食事の用意もできたことだし、客人たちも起きてくる頃だろうから、食台に運ぶ
準備をするぞ」
 そう促すと、早々に背を向けて取りかかっていった。
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