彼は、白と黒の紋様がえがく場所にいた。
やや暗い空間であり、地面には、ひらいたひつぎが散乱しており、幾基かの十字架が埋
もれている。辺りに立ちこめているもやのようなものは、煙というよりは霧のようである。
冷厳の地より断絶された者たちへの葬祭。
気温の高さを感じられない、時の止まったような場所であった。
彼はというと、取り乱した様子は見うけられず、落ち着いているようである。ただ、周
囲のものを丁重に葬りなおそうと思うも、身動きがとれないことを悔やんでいるようでは
あるが。
そのとき、彼のちょうど目の前で、空間が揺らぎ、かすかに白く光った刹那、女性の姿
をした者が現れた。彼女をかたどっている輪郭がかすかに光を帯びているためか、はっき
りとした容姿は確認できない。はかなげで清らかな空気ををまとっており、体温も感じら
れない。
そんな彼女を目の前にした彼は、やはり取り乱した様子が見うけられないどころか、落
ち着いているふうでさえあった。
「君は……?」
彼から発せられた疑問。口から出たというよりは、念力でのものであるかのように滑ら
かな。
「ここは、生と死の境界が織りなす領域。このままだと、あなたの存在そのものがあやう
くなる」
彼女は、彼の問いに意義を見いださなかったのか、それに答えることなく、この場所に
ついて淡々と告げた。
彼は、彼女をいぶかしむでもなく、むしろ魅入られたように眺めている。
感情が動いている様子もなく語る女性。彼女に彼が送るまなざしは、その口調も含めて
よく知っている者に対するそれであった。人違いであったとしても、きわめて近い存在で
あると確信があるかのような。
「お選びなさい。天に昇るか、地を這いつづけるか、それともここでさまようか」
彼の思案をよそに、彼の解を求める彼女。彼は、しばらく考えこんだ後、
「君は、俺を殺しに来たんじゃないのか?」
それについての期待をこめているようでもないが、おそれている様子もなく、そう尋ね
返してみる。
「わたしは、あなたを見とどけに来ただけのもの。相反するものでさえも交錯するこの領
域とはいえ、干渉することは不可能。ましてや手を下すことなどできるはずがないのです」
彼との会話は可能であるようだが、やはり淡々とした口調の彼女。
彼は、それ以上のことを語ろうとしない彼女をしばらく見つめていた後、
「……生きるよ。あれからどうなったのか確認できてないし、会いたい人もいるから」
「そう……」
そして、彼女は、どこまでもしとやかで、それでいて聞きいれたという意志を伝えるよ
うにして、それだけの返事をすると、
「これより、現世へ続く門を開きます。目覚めることができるかどうかはあなた次第」
続けざまにそれだけを告げ、白いかすかな光を発しながら、すっと姿を消していく。
彼が呼びとめる間もなく、彼女と替わるかのように、彼の背後に、幻想的な装飾の施さ
れた、白く輝く門が現れる。
彼は振り向き、扉の先をしばらく見つめた後、吸いこまれるようにしてそこへ駆けてい
った。
白い、白い空間をゆらゆらと漂っている。
隔てるものはなにもない。果てがどこにあるやらもしれない。
眼前にひろがるは、清らかなまでの虚無。
収まるための居どころはなく、彼にも実体はない。
あらがうことはかなわない。昇るか落ちるか、このままさまようしかなかった。
――そのときだった。高く涼やかな音が、彼の耳を貫くようにして響いてきたのは。
彼は、それにいざなわれるようにして、かなたへと溶けこんでいく。
「レキセイ!」
そう呼ばれた彼は、耳を貫くようなその声に呼応するかのように、ぱっと目を開く。
レキセイの目に、最初に飛びこんできたものは、薄汚れた天井と、心配そうに彼をのぞ
きこんでいる、薄い紅色の髪をした少女の姿。
「良かったあ! 目を覚まさなかったらどうしようかと思ったわ」
彼女は、子どものように声をあげて、レキセイに抱きつく。
「リーナ……、心配かけてごめん」
そんな彼女、リーナの背に片手をまわすレキセイ。
そのままの状態で、レキセイは、辺りを見まわす。彼の目の先には、古びたいすや机が
あり、救急箱のほかには、やや乱雑に置かれている本や書類、万年筆、携帯用の電灯など
がある。彼が乗っている木製の寝台は、ある程度年季が入っているためかきしんでおり、
敷物は固く、布団も薄い。最後に自身の姿に目をやると、身体じゅうに包帯が巻かれてい
た。
すると、レキセイは、はっと我にかえり、リーナの両肩をつかんで向き合うやいなや、
「あれからどうなったんだ? ケイトは? ほかの人たちは?」
そうまくしたててたずねる。
「彼なら、命に別状はないわ。ほかのみんなもほぼ軽傷で済んだから」
リーナは、それを一気にのみこんでそう告げた。
「ほぼ? ということは、軽傷では済まなかった人たちもいるのか?」
続けざまに、けげんな顔でたずねるレキセイ。リーナは、どことなくばつが悪い顔をし
ている。
レキセイは、即座に上体を起こす。
「――――っ!」
しかし、彼も軽傷では済まなかったようで、たちどころに激しい痛みが走った。
そのとき、だれかがこの部屋に向かってくる足音が聞こえてきた。
間もなくして、扉を叩く音がすると、
「おーい。入るよ」
足音のぬしは、そう断りを入れていたとはいえ、レキセイとリーナが返事をする前から
開け放った。
その先に立っているのは、白衣に身を包み、カルテを手にしている者。彼が、レキセイ
のほうに目を向けるやいなや、
「おお、君。目が覚めたかね」
感動した様子で、早足でそこに向かう。
「ええと、あなたは……?」
「ああ、医者だ。君の担当のね」
「そうでしたか、ありがとうございます。しかし、払えるほどのお金が……」
「ええい、この状況でそんなこと気にするんじゃない。それに、費用なら市長にもらって
る」
レキセイは、医師の豪快な話しかたに気おされたようで、目をしばたたかせている。
「ところで、起き上がってて平気なのかね? 目を覚ましても、しばらくは動けないほど
の傷なんだが」
「平気というわけにはいきませんが大丈夫です。それに、今どうなってるか確かめにいか
なければ……」
そう答えるやいなや、寝台から降りようとするレキセイ。
「だあああ、やめろっての。一週間は絶対安静なんだから」
「リーナも、大丈夫だと思うわ。レキセイってば、身体は頑丈だし、自然治癒も早いほう
だもの」
今まで黙って聞いていたリーナが、会話に入ってきた。
「そんなもので納得できるわけがないだろう。下手をすれば意識不明の重体になるところ
だったんだから。ぶん殴ってでもやめさせるぞ」
「う、それは……悪化しそうです」
ぐっと込みあげてきた様子で応答するレキセイ。
「うーん、それじゃあねえ」
リーナは、間延びした調子でそう前置きをすると、
「リーナもレキセイと一緒に行って、危ないかなあと思ったらむりやりにでも連れ戻して
くるのはどうかしら」
名案だと言わんばかりに持ちかける。
「しかしなあ……」
医師のほうは、懐柔されかけているが、まだ納得はしていないようだ。
「危険な状態になっても動くようなら、縛りつけてでもベッドの上にとどめるようにする
から」
さらに、リーナのとどめの一言。
「うっ、それはもっと危険だ」
レキセイは、さらにぐっと込みあげてきた様子で応答する。
リーナはというと、相変わらずにこにこした顔つきで、医師の返答を待つ。
「ああ、まったく。わかったわかった。その案でいい。だたし、それは絶対に守ってもら
うぞ」
「ふふ、分かってるってば。それじゃ、レキセイ、行こっ」
半ばむりやりに了承を得ると、レキセイの両手をとって促すリーナ。
レキセイがそろそろと寝台から降りると、リーナが、彼の背を両手で押すようにしなが
ら扉のほうへと向かっていく。
彼らが扉をあけ、この部屋を後にすると、しばらく、きいきいとした小気味のよい音を
残していた。
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