+. Page 040 | クロヴィネア編 .+
 彼らは、燃えさかる炎のなかにいた。
 宙に浮かんでいるのであればやがて消えゆくだろうが、木材を憑代とした火は、とどま
るところをしらず、小気味のよい音をたてながら、勢いを増していく。この場が酒気の強
い建物のなかであればなおさらだ。
 そんななかを突き進んでいる影がひとつ。青年というにはまだ若く、少年というにはた
くましい顔だち。赤々とした炎のなかでも埋没しないほどの光沢がある銀の髪。
 彼、レキセイは、着ていたコートを広げ、振りかかってくる火の粉をはらう。この火事
のなかでは、その動作をとるだけでも、体力を急激に奪われる。
 両手をひざに着いた状態で、せいこみ、息切れするレキセイ。そんな彼を待つことなく
燃えさかる炎。
 やがて、レキセイは、立っていることもままならず、意識が遠のいていく。

 ――やあ、目が覚めたかい?
 突如としてレキセイのなかに入ってきた幻聴が、彼の意識をかろうじて保つ。

 疲れているところを、また起こしてしまって悪いね。
 だけどね、このまま眠らせてしまうわけにはいかなくなったんだ。
 失われたノーゼンヴァリスと、そこに住んでいた人々の営みの記憶を持つ君を。
 そして、これから出てくるだろう苦しんでいる人々の助けになるかもしれない君をね。
 まあ、いちばんの理由は、君に興味があったからで、僕ひとりでここに住むのもさびし
くなってきたからだけどね。

 この大火のなかでは不似合いな、涼しげな幻聴。
 レキセイは、再び、焦点を合わせ、自らを奮い立たせる。このなかに取り残され、ひと
りでいる子どもをさがしだすために。

 目的の彼は、カウンターのさらに奥で、気を失っていた。襲いかかる炎から逃れようと
してこの場所に行き着くのは不自然であるが、子どもの判断力では無理もないことだった。
 レキセイは、カウンターに燃えひろがっている炎を気にする様子もなく、そこに手を着
いて跳び越える。
 不意に、火が付着している木片が、レキセイを目がけて崩れ落ちてきた。彼は、顔とい
うより目を両腕でかばっただけで、すり傷や火傷したことなどは気にとめない。
 レキセイの鬼気迫る顔つきを、にじんでいる汗がさらにそれを引きたてているようであ
った。
 目的である少年のもとへたどり着くと、彼の周囲を覆う火を、コートで振りはらうレキ
セイ。
 しかし、はらえどはらえど火は退くことをしらず、寄りつくための贄を失うまいとして
矢継ぎ早にやってくる。
 ――奪え。引きはがせ。そんな制御不能な意志の衝動が、辺りに負けじと彼を燃えあが
らせる。
 レキセイは、どうにかすきを突くと、少年をコートで覆うようにして、すかさず抱き上
げると、出口のほうへと向かっていった。
 わずかな猶予も与えられない合間に、炎は激しく燃えあがり、建物は崩壊していく。
 そして、レキセイたちが脱出するための足場までも埋めつくされていく。彼ひとりであ
るならば突き抜けることも可能なのだろうが、少年を抱きかかえた状態ではそうするわけ
にはいかない。
 ――出ろ。連れ出せ。やはり制御不能な意志の衝動が、彼を執ように駆りたてる。
 レキセイは、さらに鬼気迫る形相で、退路となる場所を探しだす。
 それでもなお見つからない。それどころか、赤で埋めつくされた視界は悪くなる一方で
あった。
 さらに、レキセイと少年の背後のほうでも木片などが崩れ落ち、彼らは炎に取り囲まれ
るかたちとなった。
 早くしなければ、少年はこのまま目を覚まさなくなるかもしれない。普段から身体を鍛
えているレキセイですら、呼吸に必要な元素の少ない場所での、乱れた息づかいのままで
は限界を迎えつつある。
 熱さのあまり頭はぐらつき、足もともおぼつかず、目までも閉じかけようとしている状
態のレキセイ。涼やかな幻聴さえも効果をなさないほどに。
 そのときだった。人々のたかぶったような声と、なにか物を手荒く扱うような音が聞こ
えてきたのは。幻聴だろうか。いや、確かに出口のほうからのものである。
 そのなかでも、レキセイの耳に飛びこんできたのは、水を打ちつけたような音。彼は、
それに呼応するかのように、意識の糸をかすかに紡ぎ直す。
 そう、この都の住人たちもまた、この火をとめるべくしていそしんでいた。
 途端に、出口に伝う壁の辺りの火が弱まる。そのすきをのがすことなく、レキセイは、
抱きかかえている少年をかばうようにしながら、素早くそこに飛び移る。
 そして、さらに、崩れ落ちてきたものが、レキセイの背を打った。それでもなお、彼は
倒れることなく済んだ。
 彼らの背後の辺りも、鼓膜が破れそうなほどの音をたてながら、屋根と思われるところ
が崩れ落ち、完全に埋めつくされた。
 レキセイは、引き寄せられるようにして、出口のほうへと駆けていった。

 業火の魔境からはき出されるようにして出てきた彼らへの、周囲の反応は驚がくや歓喜
に満ちたものだった。
「ケイト! ケイト!」
 なかでもひときわ目だつのは、年端もゆかない息子の身を案じる、母のかん高い声。彼
女は、抱きかかえられていた彼を引きとり、気を失ったままの彼の名前を呼び続ける。
「レキセイ!」
 そして、少年を抱きかかえたまま生還してきた彼の名前を呼ぶ、少女のかん高い声。
 彼、レキセイは、声のしたほうへ目をやる。
 しかし、レキセイの視界は既にぼやけているためか、彼女の姿をとらえることができな
かった。
 せめて手を伸ばそうとしたところで、レキセイの身体は前のめりになり、その手が届く
か届かないかといったところで、彼は糸が切れたように倒れこんでいった。
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