「どうだい? これなら食べれそうだろう」
秘密兵器を披露するかのように笑みを浮かべながらそう言ったのは、この屋敷のあるじ
である青年、ラフォル。衣服をゆったりとしたように着ているが、生地は相応に上質のも
のである。歳は二十三ほどであり、表情はあどけないといっても差支えがないほどである
が、やはりどことなくおごそかである。
整理が行き届いていない状態を差し引いても、この室内の家具や装飾品にしても相応に
豪華なものだ。
そんな彼が手にしているものというと、板チョコであった。取りたてて変わったところ
のない、市販のもの。
対して、長いすに腰を落ち着けたまま、それを眺めている少年。歳は十三といったとこ
ろであるが、悟りの境地に至ったかのように表情の変化にとぼしい。一見すると人形のよ
うに思えなくもないが、彼の魂から発せられるような強烈な雰囲気からは、むしろ程遠く
ある。
「食べ物がのどを通らないときでも、これを口のなかに入れておけばおのずとおなかに収
まる一級品だよ」
売りこむような口調で、ともすれば、どちらが子どもであるか分からなくなりそうなほ
どに軽快に言うラフォル。少年は、一言もしゃべらず、表情も変わらなかったが、かすか
にうなずいたふうであった。
それを合図に、ラフォルは、包装されていた板チョコを開封し、一口で食べられるほど
の大きさに割ると、少年の口へとそれを運ぶ。
少年は、おのずとそれを受けいれた。それからは、飲みこみかたが分からず、口のなか
に入ったままの状態がしばらく続いたが、どうにか食べきった。
彼らが共に暮らしはじめた頃から、少年のほうは、それまでのことに対する、精神への
打撃が大きかったためか、身体の動かしかたからしゃべりかたまで失念していた。とはい
え、生まれたての赤子のような状態にあるというだけで、記憶や精神自体にはなんら異常
はない。
少年にとっては、自身の体内を血液がかけめぐっているだけでも異様な感じを覚えるの
に、身体を使ったり、さらに別のものを取り入れたりすることなどもってのほかなのだろ
う。
そうはいうものの、その認識をくつがえすかのように、少年は、自身の無意識の領域に
蓄えられている、甚大で様々な情報により、芯は確立されているようですらある。日常の
生活を送るための能力を取り戻すのも時間の問題であるだろうというのは、ラフォルの見
解である。
幾日か経ち、少年が、しゃべることはまだままならないものの、再び身体を動かすこと
ができるようになったとき。厳密には、手足をばたつかせているといったところか。人間
の、そのうえ成長している途中の身体では、認識しうる限りのすべての情報を入れきろう
としようものならば破裂寸前となり、それでもなお、すべてのものが入りきらずにいらだ
っているような状態であった。
それによって、周囲に置いてあった物は、破損するまでにはいたっていないが、位置が
ずれていた。
それを見たラフォルは、とがめるでもなく、むしろ好機だといわんばかりに、少年に調
理の手ほどきをするようになる。
少年の、手の動き自体は滑らかですらあるものの、慣れていないためか、調理する手つ
きは危うげであった。ボウルのなかに入っている具材をかきまぜているときには、力を入
れすぎたためか、それが飛び散ったりもした。とはいえ、床に落ちた様子はない。ラフォ
ルが装着しているエプロンに掛かっていた。
ラフォルはというと、特に気にした様子もなく、緩やかな動作で、布きんですくい上げ
るようにしていた。
日を経て、幾度か繰り返していると、ラフォルは、具材が飛んでくる位置や頃合を見は
からうことができるようになり、別のボウルを両手にそれぞれ持ち、それらですくいとる
ようにして動きをつけだした。
ちなみに、ラフォルが考案した献立はというと、独創を通り越して毒そうな見た目であ
った。
しかし、かえってかしこまらずに済んだためか、少年ののどは、食料を通すようになっ
ていった。
それ以来、少年は、やはりしゃべることはままならなかったが、手足は自然な動作をさ
せられるようになり、家での生活をひとりで営むには支障がなくなっていた。
「二階で、ずらっと向かい合って並んでるのが寝室だよ。それで、あっちがトイレで、そ
っちが浴室。そして、手前に構えてる扉が、書斎に通じてるんだ。入ってはいけないとこ
ろはないから、どこでも好きに行ったり来たりして試してみてよ」
そして、ラフォルは、少年に、屋敷のなかを案内していた。
「それから、はい、これ」
ひとしきり説明し終えると、少年に向けてなにかを差し出すラフォル。
「この家の合鍵。今日、やっと届いたんだ」
かくいうラフォルを見上げる少年。ラフォルは、それからしばらくしても、にこやかな
表情を崩す様子はなく、鍵を持った手を引っこめる様子もない。
やがて、少年は、おそるおそるといった調子で手を伸ばし、緩やかに拾いあげるように
して、それを受け取った。この屋敷に、いつでも出入りができるようになるためのもの。
彼は、手にした鍵を、感慨深そうに眺めている。
ラフォルは、そんな少年をよそに、満足そうに破顔し、
「ああ良かった。もらってくれなかったらどうしようかと思ったよ」
と、心底ほっとしたように言う。
少年は、鍵を手にしたまま、そんなラフォルを、不思議そうに眺めていた。
ある日、書斎へやってきた少年は、千冊近くも並べられている本を、ほうけたような面
持ちで見まわしている。
色とりどりと、大小さまざまでありながら、ずらりと並べられている本。さらにいうと、
媒体は同じでありながら、特徴はそれぞれ違っており、互いに干渉せずに寄り添い、ひと
つのもんようをかたちづくっているもの。そんな光景に恍惚としているようだ。
「やあ、なにかおもしろそうなものでもあったかい?」
と、少年に声を掛けてきたのは、この書斎に置いてある、いすではなく机の上に座って、
足を組んだまま頬杖をついているラフォル。
少年は、どう答えればよいか分からないようで、目をぱちぱちとさせながらラフォルを
見やる。
「まず始めは、分かりやすい物語のほうがいいかな。よっと」
ラフォルは、少年の返答を聞かずしてそう言うと、腰かけていた机から軽やかに降り、
一冊の本を取り出す。
すると、今度は床の上であぐらをかいたかと思いきや、
「おいでよ」
と、少年をさそう。
少年は、わずかに考えこんだ後、ラフォルの隣に腰を下ろした。本のなかをのぞいてみ
ると、さまざまなかたちの文字がずらりと並び、文章を成している様相に、彼はさらに目
がくらんでいるようだ。
そんな少年をよそに、ラフォルは、うたうようにして物語を読みはじめた。
すると、少年も、次第に、文字の列から意識を離し、ラフォルの声を聞き入るようにな
っていった。遠い昔に思いをはせる、そんな面持ちで。
それ以降、ラフォルは、文字の解説を加えながら、少年にさまざまな物語を読み聞かせ
た。
少年も、日に日にひとりだけで本を読めるようになっていった。ただ、彼にとっては、
これ以上の読み取りという行為は、満腹でありながらさらに食べるような苦しみがともな
うものである。それでも、知識の詰まった本の性質が、認識力の高い素質がある彼をほう
っておかないのだろう。
「文字が読めるようになったらさ、次にだれかに読み聞かせるときに便利だろう」
ラフォルの弁ではそういうことらしい。
いつだったか、少年がいつものように文字を目で追っていたとき、
「そう、つぎこそは、きみを、まもることができる」
その一節を、きれぎれに、声に出して読んでいた。
少年の様子を隣で静観していたラフォルが、またたきをしたかと思いきや、
「それから? どうなったの?」
身を乗りだし、後に続く文章の内容をたずねる。
少年は、ラフォルに応じるようにして、たどたどしくありながらも次々と声にして読ん
でいく。そして、彼の顔の色は、たまっていたものを外へ押し出した後であるかのように、
次第に明るんでいくようであった。
彼らが共に生活を営みはじめてからしばらく経ったある日、少年のほうは、居間にある
長いすに腰かけていた。
周囲の、相応に豪華な家具や装飾品は相変わらずそこにあり、整理が行き届いていない
状態もそのままであった。
やがて、ラフォルが、熱い飲み物の入った、ふたり分のコップを手にしてやってくる。
彼は、そのひとつを少年に手渡すやいなや、
「そういえば、君の名前をまだ聞いてなかったね」
と、急に思い出したかのように言った。
「……レキセイ、です」
「へえ、レキセイっていうんだ。なんだか安らぎがあるというか、不思議な響きだね」
「ええと、ラフォル、さん」
レキセイと名乗った少年は、確認するように呼んだ。
「ああ、ラフォルでいいよ。それと、敬語も使わなくていい。これからしばらくは一緒に
やっていくんだからさ」
そう言うと、ラフォルは、近くに設置されている暖炉のほうへとおもむき、マッチに火
を点けて、それをそのなかへと投げ入れた。
そして、間をおかずにレキセイのほうへ向きなおり、
「改めてよろしく、レキセイ」
かく言う彼の後ろで、柔らかく揺れ、煌々とした炎は、芯から暖めるようにして燃えて
いた。
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