首都カンツァレイアの地方に隣接する地方、セイルファーデは、穏やかな静寂に包まれ
ていた。それは、祭りを終えた後の静けさであるかのように。先ほどまでは、眠ることを
知らない首都よりもにぎわっていたのだろう。今は、ひとどおりもほとんどとだえている。
月や星たち、そしてまばらに窓から漏れてくる光が、都じゅうに張りめぐらされた水路で
交わって乱反射し、世界の様相をぼんやりと奏でていた。
そんななか、きしむような轟音が響いてきた。各主要都市を行き来している列車が、こ
のセイルファーデの駅でとまったようだ。扉がひらくと、流れ込んでくるように降車する
人々。車内にも多くの人々が乗っていた。おそらく首都のほうから来たのだろう。
列車を降りた客のなかには、二十かそこらの年ごろの、一組の男女がいた。血縁という
わけではなさそうだが、恋人同士のような甘い雰囲気でもない。
「いやあ、ここは風の音も聞こえないくらい静かだね」
不意に、彼のほうが、にこやかな面持ちで、感嘆の声をあげる。
「夜中のお祭り騒ぎを思えば、カンツァレイアのほうが静かすぎるぐらいよ」
すると、彼女も、彼と同様のにこやかな面持ちで応じた。
「祭りの地へと集う、旅人たちの逢瀬。しかし、それも一夜の夢。必ず終わりが来るもの
とは裏腹に、彼らの恋慕の情の、なんと切ないこと」
また次に、どこか遠い地の物語を読み上げるような口調で、彼、ラフォル。
「ほら、変なこと言ってないで、さっさと行くわよ」
さらに、いつもの調子で受け流すように、彼女、カノン。
「はいはい、それじゃあ行きましょうかね」
こうして、かげろうのようにたゆとう光に導かれるようにして、ラフォルとカノンも、
宴を終えた夜の都へと溶けこんでいく。
そんな彼らがたどり着いたところは、建ち並んでいるなかの、とある民家。れんが造り
に、薄くも鮮やかに塗装された色合い。そこに設けられた、黒一色でありながらも豪奢に
形づくられた外灯が、優雅でありながらも素朴な雰囲気をかもし出していた。
「それじゃ、上がって」
と、その家の扉をあけ、一歩ほど後ろに構えている彼をさそう彼女。
「はあ、君って本当に、僕を男だと意識してないんだねえ」
すると、苦笑を浮かべた表情でそう言いながらも、それほど困ったといったふうでもな
いラフォル。
「あら、もしかして、女であるわたしには、身の危険がせまってるのかしら?」
くすり、と。妙に流ちょうな口調で語りかけるカノン。
「あはは、まさか。今さら、君なんぞにそんな感情はいだかないさ」
ラフォルも、そんな彼女に引けをとらない柔和な笑みで言い放つ。
「ふふ、そうでしょう? ならば、問題ないわ」
そして、微笑を交し合うと、ふたりは、吸いこまれるようにして家のなかへと入ってい
った。
ぱっと、部屋じゅうの電灯が点く。
カノンの家の内装は、全体的に白かった。もちろん、がらんどうというわけではなく、
意匠の凝らされた置物や、生活に必要な家具もそろっている。たんすなどの配置は、壁の
端から詰めて置かれており、そこで余った箇所にさえ、用具が置かれていた。
カノンは、同じくらいの年格好の男を連れて、居間のほうへやってきた。
彼、ラフォルはというと、遠慮なく、というよりも、既になじんでいるといったふうな
動作で長いすに座ってくつろぎはじめた。
カノンは、腰を下ろすそぶりはなく、
「それじゃ、昔の服を箱に詰めこんでくるから、ちょっと待ってて」
「ええええ、本当にくれるの? いや、確かに、女の子用のものまではなかったから助か
るんだけどね」
ラフォルは、大げさに驚いてみせると、頭をぽりぽりとかきながら言う。
「あなたの悪ふざけはともかくとして、その引きとった相手が女の子だというのなら、言
われなくてもそうしてたわよ」
流ちょうに語った後、いったん言葉を句切ると、カノンは、
「さてと、どんなのがいいかしら」
めい想するように目を閉じる。どことなく慈しみの表情を浮かべながら。
「はあ、会ったこともないのに、よくそこまで想像できるなあ」
「会ったことがあるかないかなんて関係ないわよ。それに、前にも話したとおり、わたし
には妹がいるから。聞いたところ、その子は妹と年端は違わないみたいだから、ますます
他人事とは思えないわ」
「そういえばそんなこと言ってたね。君が家を空けてることが多い分、祖父母のところに
預けてるとも聞いたから、僕はまだ会ったことがないけど」
「そのうち紹介したいところね。まあ、そういうわけだから、昔の服はとっておいてたの。
でも、あの子ってばスカートは履かないものだから。とはいえ、捨てるのももったいなか
ったから、ちょうどよかったわ」
一連の会話を終えると、カノンは、服を取りに行くべく、別室へ向かおうとする。それ
も一瞬のことで、ぴたりと立ちどまるやいなや、ラフォルのほうを向き、
「それから、飲み物だったら、勝手に入れて飲んでいいわよ」
と、にこやかに告げる。そして、再び別室のほうへと足を運んでいった。
「やれやれ、優しいのは駒である彼らにだけかい。それじゃ、そうさせてもらうよ」
ラフォルは、気が抜けたふうな口調でありながらもどことなく余裕ありげに、カノンに
聞かせるでもなくそう言うやいなや、すっと立ちあがる。
ラフォルは、台所に着くと、湯を沸かしはじめる。その合間に、慣れたような手つきで
戸棚をあけ、一度目で目的の物を見つけたようで、それをすっと手にとる。瓶に詰められ
た紅茶の葉である。それと、白を基調とし、バラのレリーフをアクセントとしたティーカ
ップ。
やがて、道具一式がそろうと、盆に乗せて運びながら、居間のほうへと戻っていく。
それからまもなく、カノンも、別室のほうから戻ってきた。両手には、服が入っている
と思われる箱を抱えて。
「やあ、お疲れさん。紅茶が入ったよ。君も一緒にどうだい?」
そして、荷物を足もとに置き、ラフォルのほうを向くと、
「あら、おさそいありがとう。でも、今から外へいってくるから後でね。足りないものが
あったから、おまけ用に買ってくるわ」
「そう? 足りてないどころか、服にしてはずいぶんな量みたいだけど」
「どれかを渡しておけばいいってものじゃないのよ。女性の、服に対するうらみはおそろ
しいものなんだから」
「はあ、よく分からないけど、出かけるというならおともしますよ」
くすり、と。妙におどけた調子で言うラフォル。
「と言うところだけど、今回のところは留守番してるとするさ。ついでに、僕のほうでも
用意しておくよ。とびっきりのおまけというやつをね」
「あら、それは楽しみね。それじゃ、行ってくるわ」
カノンのほうも、ほほえみながらそう言うやいなや、玄関の扉のほうへと向かっていく。
「はいはい。どうぞごゆっくり」
ラフォルがそう言うと同時に、玄関の扉がひらかれる。そして、彼女の姿が外へと消え
ていくと、扉の閉まった音がしばらく反響していた。
ラフォルは、再びすっと立ちあがると、緩やかなようであるが早足で、彼女が先ほど向
かった部屋へと赴く。すると、クローゼットのなかから、一枚の毛布を取り出す。そして、
即座に居間のほうへと戻っていった。
ラフォルは、持ってきた毛布を、自身がが先ほど座っていた長いすの後ろに置く。次に、
たんすのほうへ寄り、なにかをさがすように、それぞれのひきだしをあけたり閉めたりし
ている。
やがて、しまわれていた携帯用の電灯を見つけた。ラフォルは、一瞬それを眺めた後、
そっと閉めた。そんな彼の様子は、どことなく満足げであった。
そして、再び台所へ。先ほどとは違う位置の戸棚をあけ、白い固形物の入った瓶を手に
とった。ガラスに乱反射した、電灯の光が、甘美さを醸し出していた。
「ただいま」
「やあ、おかえり。今ちょうどいい頃合だよ」
やがて、あるじが帰宅を告げると、紅茶などの入ったカップを掲げて告げる客人。辺り
には、ほのかに漂う甘いかおり。
「あら、それじゃ、いただこうかしら」
そして、客人であるラフォルの招待に応じるあるじ、カノン。
ラフォルは、カノンのほうへ、滑らせるようにして、先ほどのカップをやる。
しかし、カノンは、そのカップを手にとることなく、
「それで、どうしてその子を引きとろうと思ったの? いくら相手が女の子で身寄りがな
いといったところで、館のなかへは、簡単に招かないでしょうに」
と、早速、本題のほうへと入る。
「それは当然さ。君だって、あそこがどういうところか知ってるだろう。まあ、あの子に
関していえば、レキセイと同様、それに対応できるものがあると判断したからさ。たとえ
ただの館であっても、同情で招き入れる僕じゃない」
軽やかな口調でありながらも、どことなく鋭さの残る面持ちで応じるラフォル。
「そうでしょうね。同情ではやっていけないという理論以前に、あなたの場合、いざとい
うときの見る目は厳しいほうだから。まあ、たとえ魔王の城だったとしても、女の子を四
六時中ひとりで外へ放りだしておくよりはまだいいわよ」
「それを言ったら、レキセイと僕しか住んでいない館も危ないけどね」
「大丈夫よ。あなたとレキセイに、人の尊厳を傷つけることなんてできないもの」
「うん、そのとおり。できないのさ。理由は君も察してるとおりだよ」
「それに、あなたを怒らせる方法なんて、わたしもそのことのほかには知らない。レキセ
イなんて、あなた以上に手がつけられなくなりそうだわ」
「ははは。君もなかなかのものだと思うけどね」
「もう……。それより、その子の名前、まだ付けてないんでしょう? 贈り物としては、
服より先のほうがいいんだから、これを渡す前に相談して決めなさいな」
「それなんだけどね、君を連れだして話をしようと思った理由のひとつさ」
「あら、わたしも? でもそのほうがいいわね。あなたたちだけに付けさせたら、どんな
名前になるか分かったものじゃないもの」
カノンは、一瞬、思考をめぐらせた後、
「それじゃ、カーナル神の話から掘り起こしてみるというのはどうかしら」
「それはまた、こんなところでもその名前が出てくるとは」
「ただし、聖典に記述されてるものじゃなくて、北方で伝えられてるおとぎ話のほうで、
ね」
「ああ、なるほどね。それだったら、僕たち三人をつなぐという意味ではいい案だ」
「後は、物語から連想される情景からの響きとか、その子のイメージに近い登場人物の名
前をひねってみるのもいいと思うわ」
そこまでいい終えると、ようやくカップを手にとる彼女。しかし、まだ口をつけず、
「それで、ほかの理由は? 列車のなかでは話せなかったようなこと、それ以前に、あな
たが、ひとを連れだしてまで話そうとするなんて余程のことなんでしょう?」
と、次の話を提起する。
「それなんだけどね、僕にも、あの子の身になにが起こっていたかを把握するすべはない
んだ。考えが読めないんじゃなくて、本当の意味で情報そのものがない。本人いわく、記
憶がないとのことだけど」
と、ここで言葉を句切り、紅茶の入ったカップを手にとってすすりだすラフォル。話に
はまだ続きがあるから待っていろという合図のようだった。カノンも、それは解している
ようで、ほほえみを崩すことなく、次の言葉を待っている。
「まあ、なにかあるのは確かだね。丸一日帰らない子がいたら、捜索願は出されているは
ずで、こういった非常時には、依頼料は取らない。なのに、出てなかったんだろう?」
確認するように言葉を発するラフォルに、黙ってうなずくカノン。
「捨てるぐらいなら売るだろうからね。ちなみに、着ていた服はそれなりに高価だったか
ら、育ての親が金欠だったとは考えられない。汚れ具合も一日野宿した程度だったよ」
さらに、ここで区切った後、カップに口をつける。
「それに、記憶はなくとも、生活に支障は出てなかった。いや、生きていくすべそのもの
を知ってるとさえいえるね」
ラフォルがそう締めくくると、カノンも、それを合図に、手にしていたカップのなかの
ものを飲みだした。そして、カップを皿へ戻すやいなや、
「彼女の、自身に関する記憶だけが抜けているというわけね。たとえなにかのショックが
原因だったとしても、想像を絶するもの。いいえ、重点はそこじゃなくて、何者かによっ
てはかられたものであるかもしれないと言いたいのね?」
「そのとおり。さすがとしか言いようがないな。だけど――」
ラフォルが、肯定の意を示したと同時に、向かい側からだれかが倒れこむ音がした。そ
して、彼は、長いすから立ちあがり、
「僕は別に手に余ったというわけじゃなくて、ただ、君にもことづけておこうと思ったま
でさ」
音のしたほうへと言い放った。そこには、長いすに横たわるカノン。
「ふふ、そうでしょうね。そうじゃないと……わざわざこんなこと……しないでしょうか
ら」
カノンは、とぎれとぎれになりながらも、響きわたるような声で応じる。瞳はうつろに
なりながらも、表情は凛としたままで。
「はは、気に入ってくれたかい?」
「ええ、とても。この際だから……ゆっくり休ませてもらうわね」
カノンは、落ち着き払ったまま応じると、ゆっくりとまぶたを閉じていく。
「疲れていたところを、いきなり呼び出して悪かったね。これがせめてものはなむけさ」
睡眠薬と書かれたラベルがはられている、幾つかの白い固形物の入ったビンを手にして
述べるラフォル。そして、持ちだしていた毛布をカノンにかけるラフォル。
「おやすみ。ああそうだ、携帯用の電灯のついでに、ここの合鍵も借りていくよ。鍵は掛
けておくからさ」
ラフォルがそう告げると、カノンは、聞いているのやら聞こえていないのやら、安らぎ
を告げるように、かすかに表情を動かした。そして、奥底にしみこむような、穏やかな呼
吸の音。寝入ったようだ。
それを確認すると、ラフォルは、カノンのそばに置いてある箱を持ち上げる。そして、
電灯を消し、音をできるだけたてないようにして玄関の扉をひらく。
彼は、もう闇夜であろう外へと踏みだしていった。
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