+. Page 007 | プロローグ .+
 一日の終わりを告げる夕刻、首都の属領にあたるテュアルという町にて、ふたつの影が
あった。
「わあ、やっぱり、ここは夕焼けがきれいね」
 そのうちのひとり、まだ少女ともいえる年ごろの彼女が、感嘆の声をもらす。
「うん……」
 そしてもうひとり、少年と青年の中間くらいの彼は、それだけ言うやいなや、夕空を見
あげる。彼の瞳には、たそがれの空を憂えているというよりは、思い出を慈しむ色が宿っ
ているようである。
「おや、レキセイにリーナ。今帰りかい?」
 不意に、ほぼ近くのほうから声が聞こえてきた。
 その先には、食料品を扱っている店舗の側で、きっぷのよさそうな中年の女性が立って
いた。
「あっ、おばちゃん、こんにちはあ」
 リーナは、軽やかな足どりでそちらに向かう。
「はいはい、こんにちは。リーナはいつに増しても元気だねえ」
 レキセイも、ゆったりとした足どりで、彼女の後に続くかたちでそちらに向かうと、
「って、あれま。レキセイのほうはあまり元気がないみたいだね」
「えーと、体調のほうはなんともありませんから、気疲れだと思います。その……仕事中
に厄介なことがありまして」
「なるほどねえ。確かに、仕事となると、楽なばかりじゃないからねえ。まあ、なにかお
いしいものでも食べて元気だしなよ。ついでになにか買っていかないかい?」
 べらべらとしゃべっているなかにも、どことなく流ちょうさのうかがえる声で尋ねられ
る。それに対し、レキセイがまごついていると、
「んーと、確か、きゅうりとにんじんと玉ねぎが不足してたから、それ買うね」
 リーナのほうが買い出しを申し出た。
「はいよ。ついでにキャベツもどうだい? さっき入荷したばかりだから新鮮だよ」
「キャベツはまだあるから遠慮しておくわ。でも玉ねぎは減りが早いから、そっちはもう
ひとつ追加でお願い」
「あっはは、了解」
 ひとしきりけらけらと笑うと、店の奥のほうへ行き、
「ほい、お待たせ」
 即行で、野菜を袋に入れて持ってきた。
「うん、ありがとう。それじゃあ、おばちゃん、まったねー」
「はいはい、またおいで」
「えっと、失礼します」
 ふたりは、見送られると、再び同時に歩きだした。
 その合間にも、ほかの住人たちからも声を掛けられ、あいさつや会話を交わしつつ、テ
ュアルを後にした。

 町の郊外にある一軒家、その敷地にある森や草花が、夕日を浴びて輝いていた。
 その向こう側から、かのふたりが歩いてくる。
 そのとき、夕日で赤く見えるが実際には白である、翼を持つものが、彼らのほうに向か
って勢いで飛んでくる。そして、ハトのくちばしが、ふたりのうちの片割れである彼、レ
キセイの額に直撃した。
 ハトは、ぶつかった反動で、ぽとりと地面に落ちていった。レキセイはというと、額に
触れるそぶりもなく、その場にかがむ。
 その合間にも、もうひとりの片割れである彼女、リーナは、身に着けていた携帯用のか
ばんからばんそうこうを取り出し、慣れた手つきで、彼の額にはる。
「えっと、ありがとう」
 と言うやいなや、ハトを目の高さまで持ち上げると、
「おまたせ。ただいま」
 そして、ひとしきり戯れた後、ふたりは家のなかに入っていった。

 時刻も夜間に差しかかった頃、かの館の居間には少女がひとり。
 彼女は、帳面に筆を走らせているようだ。その周りには、出番を待ち構える兵士さなが
らに、色鉛筆が散乱していた。
「リーナ」
 不意に、背後から声を掛けられる。彼女が振り返った先には、
「あっ、レキセイ」
「絵日記をかいてるのか?」
 長いすの後ろから、そっとのぞきこむ姿勢で尋ねるレキセイ。
「うん。日記のほうは書けたんだけど、絵のほうはなににしようかなあ。今日はいろんな
ことがあったもんね」
 彼女は、並べられた商品を選ぶように、思考をめぐらせている。
「あ、そうだ。地下の水路で起こったことにしよっと。これがいちばんすごかったから」
 と言うやいなや、色とりどりの鉛筆を持ち替えながら、再び筆を走らせる。
 そして、小刀を突き出して迫ってくる、中年の男がえがかれた。
「うふふ。だいぶ絵日記らしくなってきた」
 彼女は、特になにを危ぶむでもなくえがきつづける。
「あ、今日は十二月十七日だったんだ」
「わ、レキセイってば知らなかったの?」
「うーん、そのくらいだとは思ってたけど、すぐに出てこなかったみたいだ。十六日や十
八日って言ってたかもしれないし」
「もう……」
 かくいう彼女は、あきれているというよりは、手のかかる子どもを持った親のような表
情だった。
 そして、彼女は、子どものようなしなやかさをたたえた笑みと、生命活動を営む小動物
さながらの動作で、色鉛筆をいれものにしまっている。
 レキセイは、そんな彼女を、ただ静かに見つめていた。
「さてと」
 と、最後に帳面を閉じながら切りだすリーナ。
「今日は満月みたいだし、リーナはお庭のほうに出てみるけど、レキセイも一緒にどう?」
「あ、いや、俺は疲れたから、先に寝かせてもらうよ」
「うー、そっか。それじゃ、おやすみ」
「うん。おやすみ、リーナ」
 そして、ぴょこぴょことした足どりで居間を後にするリーナ。
 レキセイは、そんな彼女の姿が見えなくなるまで、その場に立ちつくしていた。

 外が暗くなった頃、かの館の屋内は、穏やかな静寂が支配する。
 そんななか、住人である彼は、廊下を歩いていた。そして、台所の付近に差しかかった
とき、
「やあ、レキセイ」
 館のあるじである青年が、彼を呼びとめる。
「ちょうどよかった。今からお茶にしようと思ってたとこなんだ。ちょっと準備を手伝っ
てよ」
 唐突にそう告げるやいなや、奥のほうへ向かって準備を始めるあるじ、ラフォル。
 レキセイは、首を横にかしげた後、ラフォルに続いて、台所へと向かっていった。
 準備を終えた彼らは、テーブルで向かい合って座る。そして、用意されたティーポット
と、それぞれの目の前に置かれたティーカップ。
 ほのかに香る、紅茶の甘いにおい。辺りを漂う生活臭をも打ち消すほどに、いや、それ
がかえって絶妙に調和しているふうでもあった。
「ふう、満月の夜には、紅茶でも飲んで一息つくに限るね。君たちともしばらく、こうや
ってのんびりできなくなってしまうわけだし」
「えっと、ラフォル」
 突如として、紅茶の入ったティーカップを手にしながら、声を発するレキセイ。
「んー?」
 ラフォルは、そんな呼びかけに、にこやかな表情で応じる。
「旅に出るって話なんだけど……」
 さらに、ためらいがちに区切るレキセイの言葉の続きを待つ。
「リーナはこれでよかったのかな。俺が付き合わせるかたちになってしまって。リーナの
ほうはなにも言わずにいつもどおりふるまってるから、言いだす時機をのがしてたんだけ
ど……」
「なるほど。彼女を世の闇にさらすのはいやだって?」
「いや、むしろ、リーナの身を案じるなら、一緒にいるほうがいいとは思うんだ。リーナ
も、世間知らずではないだろうし、自分の身を守れないほど弱くはないはずだから」
 そこで、またいったん言葉を区切るレキセイ。ラフォルは、なにやら感心したようにあ
いづちを打つと、またもや、ただ静かに次の言葉を待っている。
「ただ、リーナの今の日常を壊してしまうことになるから。俺が旅を取りやめればいいん
だけど、それもなんだか違うような気がして……」
「ふむふむ。しかし、どちらにしろ、彼女は付いていく気満々なんだよね。だったら、レ
ディーに恥をかかせぬよう、しっかりとエスコートするしかないね」
 そう進言されるたレキセイは、一瞬、目をぱちくりとさせた。
「それに、君たちはふたりでないと、仕事を受けられない決まりになってることだしね」
 そして、そう締めくくられると、ためらいを残した面持ちでありながらも、意を決した
ように顔をあげ、
「……うん。なににしても、俺ひとりだと遂行できそうにないし、とにかく、壊してしま
った日常の分は、なんらかのかたちで返せるようにするしかないな」
 緩やかな動作で、飲み終えた後のティーカップを下ろしながら告げるレキセイ。
 彼も、それに応じるように、満面の笑みを浮かべた。
 その後、ひとしきりゆったりと会話を交わしつつ、ティータイムを終え、さらに片づけ
をも終えると、
「それじゃあ、今度こそ寝るから、おやすみ」
「うん、おやすみ」
 就寝前の儀式を交わすと、レキセイは、ラフォルを残し、台所を後にした。

 外の世界は、漆黒の空が広がっており、無数の星たちが瞬いている。
 その中天とも果てともつかない位置には、満月がぽっかりと浮かんでいた。地上には、
衣装をはためかせている、ひとりの少女がいた。彼女の容ぼうは、月の光にさらされてい
るためか、奇妙なあでやかさをたたえていた。
「やあ、お嬢さん。今宵は月がきれいですね」
 少女は、声のしたほうへ振り向く。そこには、至って穏やかで、逆に厳かささえ漂って
いる青年の姿。
「用事以外のときにひとりでいるなんて、珍しいこともあるんだね」
「んーとね、レキセイに振られたの」
「ええええ」
 先ほどのしなやかな物腰とは裏腹に、すっとんきょうな声をあげる彼。
「うふふ、冗談よ。一緒に月を見ようって誘ったんだけど、疲れてるからって断られちゃ
った」
 リーナは、いたずらな子のような笑みを浮かべて言った。
「はは、そうか。それでも、リーナはどこまでもレキセイについていくんだよね」
 そして、先ほどとはうって変わって、目をぱちくりとさせる。
「今朝も言ったけど、ここでいつもどおりの日常を送ってもいいんだよ」
「うーん、リーナも、ここで暮らす以前のことなんてどうでもいいんだけどね。たとえパ
パやママに会えたとしても、見ず知らずの他人としか思えないでしょうし」
 しかし、それも一瞬のことで、先ほどのように無邪気な表情で答えた。
「でもね。リーナの日常は、ラフォルがいて、レキセイもいてこそのものだから。それも
もうかなわないなら、そのレキセイと一緒に、外の世界に飛びこんじゃうほうがいいわ」
 続いて、ころころと表情を変えながら受け答えるリーナ。
「そっか。そういうことなら、僕もとめないよ。ただ、ここは君の家なんだから、いつで
も帰っておいで。幸い、主要都市のあいだには鉄道網が敷かれてるし、いざとなれば、レ
キセイを引きずってでも帰るという選択もありさ」
「うー、邪魔をするのは趣味じゃないし、途中で引きあげるのもなんだかしゃくだから遠
慮したいところね。でもありがとう」
 話を終えると、軽やかな足どりで、くるりとまわり、そこにある扉のほうへと向かう。
そして、なにかを言い忘れたといった様子で振り返り、
「それにね。世界を見てまわるのも楽しみだから大丈夫よ」
 にっこりと。ただ純粋にほほ笑み、大丈夫という部分を強調して告げた。
 彼も、それに応じるように、満面の笑みを浮かべた。
「さてと。リーナはそろそろ寝にいくけど、ラフォルはどうするの?」
「せっかくだから、僕はもう少し、月を見てからにするよ」
「そう? それじゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
 眠りに就く前の儀式を終えると、リーナは再び、扉の先へと足を進める。
 その場に残った彼、ラフォルは、吸いこまれるようにして、幻想的にきらめく月を見あ
げた。
BACK | Top Page | NEXT