+. Page 008 | プロローグ .+
 夜空に浮かぶ満月と、付き添うように散らばっている星の数々。
 そして、その下に広がっており、風になびいている草木。そんななかにぽつりと建って
いる一軒の館。傍らにはひとりの青年が立っていた。威厳さえ感じさせるほどの落ち着い
た佇まいは、この庭園のあるじであることを物語っている。
「おーい、グラン。起きてるかーい」
 あるじが、ひときわ大きな木のほうへ向かって声を発すると、
「あ、はーい。今寝てるので、少々待ってくださーい」
 その木の上のほうからは、男性にしては高く、女性にしては低い声が聞こえてきた。そ
れは、気だるくとも緩やかともとれる調子だった。しばらくして、葉と葉を人為的にこす
った音が響いてくる。
「んー、分かった」
 にこやかに応じるあるじ。
 そのとき、あるじよりいくつか年下の青年が、木から飛び下り、軽やかに着地した。
「ふあーあ……、師匠、おはようございます」
 頭をかきながら受け答え、あるじのほうへと向かって歩く彼、グラン。体つきはしなや
かそうであるが、ずいぶんと鍛えられているようだ。どことなく異国情緒な雰囲気をまと
っており、こげ茶色の髪がさらにそれを引き出している。
「おはよう。それにしても、よくあんなところに乗っかっていられるね」
「まあ住めば都です」
 にこやかに話を持ち出すあるじに、同じようににこやかに応じるグラン。
「それで、結局、レッキーとリーナくんは、ここを離れるんですって?」
「うん、そうなんだ」
 そして、グランがにこやかに話を持ち出すと、あるじもにこやかに答える。
「うわー、さすがというか、余裕ですね」
「さあ、それはどうかな」
 両者は、乾杯するかのように会話を交わしつづける。
「どうせなら、俺を倒してから行けーとでも言えばよかったでしょうに」
「ははは、それは勘弁してくれよ。今は、さすがに、ふたりがかりだと、僕でも勝てそう
もないよ。武術に限らず、ね」
 そして、杯を交わすかのように、たんたんと語り合う彼ら。
「ふふ、まあそれはともかくとしてですね。僕が言うまでもないですが、今どき、人と人
の関係なんて希薄なもんですよ。そんななかにあの子たちふたりだけって、大丈夫でしょ
うかね。もちろん、それが返って助かるってこともあるでしょうが」
「ああ、ふたりがかりだとなんとやらは、人脈だって例外ではないさ。それに、第一の目
的地はセイルファーデなんだし」
「なるほど。あそこならまだ、人同士の繋がりも根強いほうですからね」
 ここで、再び静寂が訪れる。どうやら、一杯目を飲み終えたといったところのようだ。
「あー、あとですね。気づいてると思いますが、なにやらすごいことが起ころうとしてい
るようですよ。それでも無事である保障はいかほどで?」
「さすがに心配なんだけどね。抑制という範ちゅうに収まらない欲求までは、どうにもで
きないさ。少なくとも、掃除やおつかいを押しつけただけでは事足りないほど成長してる
しね。返って良い方向に作用することを期待するまでさ」
「はあ、それを言われちゃおしまいです」
「ま、かわいい子には旅をさせよってことだね」
 両者とも、毒気にさらされながらも、なおも表情を崩したそぶりがない。
「そういえば、グラン。君は、センドヴァリス、いや、セピュラントで起ころうとしてる
事に関して、どこまでつかんでいるんだい?」
「はあ、大方の予測はついてるのですが、それを語るとなると、プロローグのようなもの
が半数以上も占めることとなりそうで」
「かまわないさ。それに、どのようにしたところで、今夜は眠れそうもない。もし、君と
僕の考えてることに共通点を見いだせるなら、これほど話の早いことはない」
「はは、それはそうですね。ただ、僕の持ってる情報は、新鮮とは言いがたいですし、僕
の手あかもべったりついてるかもしれないですよ」
 えてして、情報というものは、人から人へとめぐりめぐると、徐々に正確性が失われ、
尾ひれまで付いてしまうものである。告げる者にしても、受け取る者にしても、ほぼ無意
識に、印象に残った部分のみを抽出していたり、都合のよいように解釈していたりするこ
とが多々ある。それは、どれほどの情報通とて例外ではない。
「それも気にしなくていいさ。君がくれた情報という食材で料理して、知識へと昇華させ
るのは僕の役目だから。その食材のどれを取って、どこを切り捨てるかの選択肢もこちら
にあるというわけさ」
「確かにそうでした。どうやら余計な心配だったようですね」
「いいや、助かるよ。わかってはいても確認しておいたほうがいいことだってあるからさ」
「はあ、本当にかないませんよ、師匠には。さて、その確認ついでに、今からする話がだ
れかに聞かれる可能性は?」
「まったくもってないね。ただでさえ、ここは隔絶された森のなか。レキセイとリーナだ
って、目が覚めたとしても、家のなかにいれば、聞こえるよしもない。仮に、外へ出てき
たとしても、すぐにわかるさ」
「そうですか。それでは遠慮なく」
 その刹那、彼らの声をかき消すかのように、風の音がひゅうひゅうと響きわたる。
 そして、いくばくかの時が流れ、夜もすっかり更けてきた頃。
「ふーう、すっきりした。さーて、そろそろミッション再開といきますか」
「もういくのかい? せめて夜明けまで待ったらいいのに」
「夜間のほうが動きやすいんですよ。幸い、列車は四六時中走ってることですしね」
「そうだったね。それじゃ、次に会えるのを楽しみにしてるよ」
「はーい。師匠こそ、次に会うときまで生きててくださいよ」
 グランは、ひとしきり語り終えた後、あるじに背を向けて走り去り、闇夜へととけこん
でいった。
 再び静寂が訪れたなか、あるじも屋敷へと入っていった。

 森のなかにある一軒家というのは、概して不気味さがつきまとう。真夜中に、包丁をと
ぐ音が響きわたることなど茶飯事なのだろう。
 そんななか、一室には、ひとりの男が寝泊りをしている。そして、もうひと部屋には、
ひとりの女も寝泊りをしていた。彼のほうは、響きわたっている音に反応したのだろうか、
むっくりと身体を起こす。一方、彼女はなおも眠り続けていた。
 そして、とんとんと、迫ってくるような音が聞こえてくる。

 外は既に明るみがさしていた。辺り一面の草や花を囲むようにして広がっている森。抜
けるように青い空も、相変わらずの様相を呈していた。
 そのなかにぽつんと建っている館の一室では、住人である彼が、寝台で眠っている。寝
相は至ってきれいなもので、奇妙なあでやかさをたたえた顔つきに伴い、安置された亡が
らをほうふつするほどである。
 廊下のほうからは、だれかが走っている音が響きわたる。それは、彼の部屋に向かって
きているようだ。
 そして、勢いよく扉が開け放たれる。
「とりゃあ!」
「わっ、と」
 彼は、自身が眠っていた寝台に飛びつかれると、驚いた様子で、ぱっと目が覚めた。
 そのぬしは、彼より少し年下といったところの少女であった。ちなみに、奇妙なあでや
かさをたたえているということ以外は、あらゆる面で似ていない。
「レキセイおっはよ。ほらほら、起きてよお。今日は記念すべき出発の日なんだから」
 そして、彼、レキセイのひざの辺りを揺すりながら言う。
「うん。おはようリーナ」
 レキセイはそれに応じるかたちで、背伸びやあくびさえせず身体を起こす。
「レキセイが寝坊するなんて珍しいね」
 リーナと呼ばれた少女は、小首をかしげながら言った。
「えーと、明けがたくらいに起きて、また寝てしまったんだ。ラフォルが台所でなにかし
てたみたいで、その物音で」
「あっそうなんだ。ってことは、朝食はできてるのね」
 すると、ばねのように跳んで、寝台から降りるリーナ。
「それじゃ、リーナは先に台所に行ってるね」
 リーナは、満面の笑みで告げ、軽やかな足どりで部屋を後にした。
 レキセイも、以後のの支度を終えると、彼女の後に続くかたちで、そこへと向かってい
った。

 館の中核ともいえる場所では、朝食の準備に勤しんでいる青年の姿があった。ただ、足
の踏み場がないほどに塵が散乱しているが。
 扉のひらかれる音がすると、いったん手を休めて振り向き、
「やあやあ、おはようおふたりさん」
「ラフォルおっはよ」
 そのうちのひとりである少女は、わずかな隙間を、軽やかにつま先で踏みながら、ラフ
ォルのほうへと駆け寄る。もうひとりのほうの彼は、よろめきながら、あくたを踏む音を
させて歩いてきている。
「おはよう。えっと、なんだかまたすごいことになってるみたいだけど、今日はどうした
んだ?」
「やだなあ。君たち、今日から旅に出るんだろう。だからお弁当を作ってたんだ」
「わーい、ありがとう。……って、旅立ちの前にお弁当を作ってもらうっていうのも、な
んだか締まらない気もするけど」
「あのねえ。徒歩で行くとなると、夜になっても、人のいるところにたどり着けないこと
なんてざらにあるんだ。保存食はできるだけたくわえておいたほうがいいしね」
 次々と、ふたりの言葉に答えていくラフォル。そのときの彼の口調や面持ちは、子を諭
すような穏やかさをたたえていた。
 レキセイは、不意に、テーブルの上に並べられた、ふたり分の弁当に目をやる。
「うん。それじゃ、ありがたくもらうよ」
 そんなやりとりの後、彼ら三人は食卓へと着く。そして、食事をしながら交わされる団
らん。どこにでもある、一家の朝の風景であった。

 出かける準備を終え、朝食をとった後に、住人たちの集う先は玄関であった。そして最
後に行われる儀式は、
「それじゃ、行ってくる」
「行ってきまーす。……あ! 行くって言ったら行くんだからね」
「ははは。さすがに、この期に及んで引きとめはしないさ。今さら言って聞かせることも
ないしね。しいて言うなら、旅先で出会った人たちは大切にってことだね。特に、縁を結
ぶことができた人だと、君たちの生涯にも重要であることは間違いないだろうからさ」
 あいさつもそこそこに、絵本でも読み聞かせるように穏やかで流ちょうに言いきるある
じ。
「もう、それこそ、耳にたこができるほど聞いたわよ。ラフォルのほうこそ、掃除と片づ
けはちゃんとするのよ?」
「うーん、善処はします」
 頭をぽりぽりとかきながら応じるラフォル。言いまわしが妙であることは、それほど気
にしなくともよさそうだ。
 それもつかの間のことで、ふたりのほうへ視線を戻すと、
「それじゃ、けがをするなとは言わないけど、必ず一緒に帰ってくるんだよ。いいね?」
 飽くまでゆったりとした口調と面持ちで語りかける。
「もうっ、そんなの当ったりまえじゃない」
「大丈夫。これからどうなるかは分からないけど、それだけは約束する」
 頑として答えるリーナと、かみ締めるように静かに告げるレキセイ。ラフォルは、そん
な彼らに光をさすような笑みを向ける。
 そして、彼に見送られながら、この館を後にするふたり。
 こうして、彼らの長い長い旅の話が、幕をあけた。
BACK | Top Page | NEXT