+. Page 094 | 雨降る夜の亡霊 .+
 今度は皿屋敷について。ある意味では荒屋敷でもある。
 血屋敷とは違うのだが、これもあながち間違いではないかもしれない。
 皿屋敷とは、お菊という亡霊が、井戸にて夜な夜な皿を数えるという怪談のことである。
 怪談を階段というのは、死後の世界が幾つかの層からなっているという仮定で考えると、
これもあながち間違いではなさそうだ。
 くさかんむりに米が入っている菊という字。やはり精神が樹へと流れていくさまを表し
ているのだろうか。場所は井戸であり、菊門という言葉もあるぐらいだから、あの世とこ
の世の橋渡しのような役割であるということか。
 ここでいう皿は、肉体のことというよりは服のことでありそうだ。つまり生前の思い出
の帳面のようなもの。
 サラといえば、沙羅双樹という、生命の木を象徴するものがある。または娑羅と書き、
娑婆を思わせる。
 娑婆というのは、現世を意味する言葉であるが、服役や兵役などで拘束されている者た
ちから見た、自由な外の世界という意味でもある。遊郭で働かされている場合もそうであ
る。
 現実でも、状況としてはそのようなものであるといえる。多くの者たちがそう意識でき
ないだけであって。むしろ生きていくためにはそれが当然であるとすりこまれているのだ
から。

 ここで連想される奪衣婆、三途川にて亡者の衣類をはぎ取るというもの。
 この世から見たあの世は娑婆といえなくもなく、その辺りから定着したのだろう。
 三途川の奪衣婆といえば、大地を意味するテラの外側であり、その狭間である、この世
という子宮を囲っているもの、つまり地母神であるガイアに相当するというわけか。
 奪衣婆はダツエバと読み、奪エバーとなって、常に奪うということとなる。それはやは
り生前の記憶などを。それを象徴する服を木に吊り下げるという部分が肝要である。木を
原料とする紙は神であり髪でもある。失恋したら髪を切るというゆえんは、髪には記憶が
宿っているといわれているところにあるのだ。
 常にというと、繰り返しということでもあり、この場合は輪廻転生が当てはまる。あの
世のことを常世という所以はここにあったわけか。
 当然、生まれてくるときは母親の胎内からということになり、地母神などとはよく言っ
たものである。
 奪うという音が乳母うであることも象徴的であるが、奪エバーから脱エバーに向かって
いったほうがよさそうではある。
 ただし、輪廻から外れようとすると追手が来る可能性が高く、むしろ楽園から追放する
かのごとく間引かれることとて考えられるため、その辺りの警戒は常にしておくべきであ
る。
 ところでネバーは、一度もないという意味であるが、その名を冠した土地があるのだと
いう。
 そこは、親とはぐれた子どもたちが、妖精とともに暮らす場所であり、彼らは年を取ら
ず、大人にならないのだとか。
 その話で取りあげられているのは、乳母車から落ちたことによって離れ離れになったと
いうものである。
 これは、地母神から離れる、つまり六道の輪廻から脱すると解くことができる。その先
にあるのが桃源郷であり、十元凶といったものである。
 ちなみに、そのネバーという場所は、子どもが大人になったら殺されるのだともいわれ
ている。肉体はなく、輪廻転生から抜け出しているのだとすれば、間引かれるといったほ
うが適切であるか。
 桃源郷では、記憶どころか魂そのものを消されていると考えるべきだろう。
 まさに外道とはこのことであり、反吐が出る音であるゲーというだけでは事足りないと
いうわけである。

 さらに、サラという字には更があり、この更にという意味でもある。
 更といえば、服を着替えることを表す更衣という言葉がある。
 これこそが、ガイアやらテラやらの持つ欲求につながる。要は、生きとし生けるものの
血や涙で作りあげた服で着飾りたい、言い換えると夢が見たいということである。衣食住
という言葉にあるように、衣が先に来るのは、そこが高位の存在の意思とされているから
なのだろう。天からぷらぷらと垂れさがったような名前の食べ物にも「衣」と呼ばれるも
のがある。
 正確には、それはテラのほうであり、コロモというよりはコドモである。コロモもやは
りコロすというところから来ているのだろうか。
 テラがかごのなかの鳥だとすると、そのかごは生命たちの力の源で編み上げられたもの
である。龍脈と呼ばれているものが相当するのだろう。その力が色濃く集まっている所を
気場といい、通称パワースポットである。
 ガイアは、テラのそうした欲望を利用して、そこの生命ごとそれを焼きつくそうとして
いるのだという。ガイアとは地母神であり、奪エバでもあり、エバとはイブのことでもあ
る。
 楽園を追放された腹いせに、かつて楽園でもあったテラの地上に、争いなどによって煉
獄をもたらそうとているのだろうと。もしくは威厳を示したいがために、母なるものとし
て振る舞いたかったのだろうとも。
 テラは子宮にいる胎児に見えるため、その母ガイアが先だと思うだろう。しかしながら、
これも天地がひっくり返っていることと同じく、ガイアのほうが後になってテラに取りつ
いたものと思われる。ガイアが地母神と呼ばれているのは、テラを取りこむために快楽を
与えて庇護者であると思わせる必要があったことに起因するのだろう。
 いや、テラは最初、その企てを感知しながら、逆にガイアを利用しようとしたのだろう。
 生命たちの競争心を駆りたてることで成長を促し、自身もよりよい夢を見るために。
 それこそ、鶏が先か、卵が先かという議題で争わせるように仕向けて、自分たちのほう
に目を向けさせないようにして。
 もしくは、生命たちの協奏曲とでも洒落こんでいるつもりであるか。
 衝突させて火花を散らさせるにしても、ときめきで萌えさせて燃えさせるにしても、炎
さえ上げさせればどちらでもかまわないと。
 結果としては、しゃれこうべというか、盛者必衰であったといったところか。
 そもそも、テラが慢心してガイアを受け入れた時点で結果は決まっていたのかもしれな
い。
 盛者必衰と似たような言葉として、生者必滅というものがある。この世に生きているも
のはすべて、いつか死が訪れるというものである。意味合いとしては同じだといえるだろ
う。
 ころころと衣を着替えるだけのつもりで彼らの生老病死を容認してきたオハチが回って
きたといったところか。
 お鉢が回るとは、炊いた米の入った飯櫃を多人数で回し合って食べることから、順番が
回ってきたという意味で使われる。しかしながら今では、しわ寄せがきたという意味合い
が強い。
 ハチといえば十八番でもあり、それをオハコと読むようになったことも偶然ではなさそ
うだ。六に三を掛けた、六の三つ巴。
 とにもかくにも、飽きという現象が訪れたり、動くものに反応したりするのは、テラの
そうした性質が、生命たちにも波及したからなのだろう。そもそも飽きてくれなければコ
ロせなくもあり、収穫の秋がやって来ないといったところか。
 流行でいえば、やはり服装で顕著に現れる。装いだけで印象が左右される辺り、テラの
性質の根深さがうかがえる。眼鏡をかけると人が変わるなどという話も、極端ではあるが
分かりやすい例だろう。
 そして、テラを取りこむことができたと思いこんだガイアは、生命たちの営みという服
を与え、彼らの精神を食事として与えることに注力する。
 そうしてテラは、生命たちという夢を着るだけでは飽き足らず、それを食べるようにな
り、快楽を与えられることにも慣れてきて、いつしかガイアを母なるものと認識したとい
ったところか。快楽を与えてくれるならだれでもいいのだと言わんばかりに。
 いや、快楽ばかりではなく、苦痛もあるだろうが。
 生命たちに涙を流させるようなことをしたのなら当然の帰結でもあるといえる。その要
因が、喜びであるにしろ、悲しみであるにしろ。
 テラ自身も、苦痛のなかの快楽によって取りこまれたというのが正解か。快楽ばかりで
は飽きがきて、とっくにガイアから抜け出しているだろうから。地獄に仏、あめとむちと
いったような洗脳であるのだろう。生命たちには、編めと無知、知らぬが仏というものを
課して。
 テラは、生命たちに肉体や食べ物などを与えて養っているつもりであるなか、特に人間
に環境を汚染されるなどして、完全に被害者のつもりでもあり、恩知らずの裏切り者とす
ら思っている可能性がある。
 人は人で、そう認識している者が多く、罪悪感を刺激されていて、知らず知らずのうち
に向こうに思いという涙をささげっぱなしになっていることが多い。そのほとんどがテラ
にではなく、ガイアのほうへと流れたままなのだとしたら、なおさらであるだろう。そう
してテラごと滅ぼそうとしているのだとしたら、それもそのはずなのだ。
 生命たちは、それらにたよらないと生きていけないようにされているということに思い
至りにくく、あまつさえ前世などの記憶や縁などを奪われているという自覚がない。それ
ばかりか、さまざまなものを引き裂かれたときの痛みをも忘れて、痛みを痛みとしての認
識さえできなくなっているのだ。
 お互いがお互いを食べ合うことで成立した、無限を表す記号のような円環。輪廻転生の
さまをえがいたものでもある。
 生命たちの精神をついてできあがったおもちを食べたり、彼らを兵隊のおもちゃ扱いを
して、その花のドレスを着てちゃちゃちゃと茶番を繰りひろげている限り、いずれ滅びへ
と向かうだけだろう。
 しかも、ねずみ算式で増やしておきながら、いずれかを持て余して、愛を与えきれてい
ないとしたら。その嫉妬は愛されているほうに向かい、お気に入りのおもちゃを汚される
という皮肉となる。その状態が繰り返された結果など、火を見るよりも明らかである。
 歴史は繰り返す。それは、かつてのガイアが愛されずに楽園を追い出されたことの再現
でもあるのだ。
 それこそ、かつての楽園で優雅に飛びまわっていた極楽鳥から、なにもなさない人形へ
格下げ、言い換えると島流しといったものだろう。
 もはや、テラ自身がそれに気づいて生まれ直さない限り、助かる道はないだろう。生ま
れ変わっただけでは繰り返しになるから。
 地母神を追い払うことでもなく、自ら生まれいずることであり、親離れといったところ
だ。鶏でも卵でもない、ひよこになるしかないのだ。

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