+. Page 093 | 雨降る夜の亡霊 .+
 もうひとつ余談として、阿頼耶識の八識にわたって、第九識とされる阿摩羅識というも
のがある。
 本来、心はけがれのないものという考えに由来する。ゆえに、別名を清浄識または無垢
識という。
 ミカゲは、そこに思い当って、米を研いでいた手をはたととめる。そして水に浸かって
いるそれを見やる。
 なんてことはない、阿頼耶識が大樹または家であるとすると、阿摩羅識は陸地のことで
である。つまり無垢と掛けて、羊水に浸かった胎児のことだ。
 ヒトという果実から、大樹を通して精神を吸い上げた胎児。そしてそれはその母なるも
の、ガイアへと献上される。
 表向きには、母が子を育み、大地が実を成すとされている。そのため、精神の領域では
逆であるということに思い至りにくいのだ。大地をたたえ、自然を崇拝するように教育さ
れているともなればなおさら。そもそも、生きとし生けるものは、それらの恩恵がないと
生きていけないようにされているのだから。そこに疑問を持たせるどころか、感謝を捧げ
るように仕向けているのだ。仮に疑問を持てたとしても、育んでもらったという負い目を
ちらつかせて、反逆を抑止するという寸法なのだ。
 母とは愛を与えてくれる存在であるとされ、同時に畏怖させるほどに影響を与えるとさ
れるゆえんである地母神ガイア。そして赤子を尊いものとして見るゆえんである大地テラ。
 ガイアは確かにテラを愛しているのだろう。糸で操ることができるから愛しいのだと。
 そう考えると、テラ自身も乗っ取られた被害者であるのだろう。
 しかし、同情することはできない。快楽におぼれ、夢を見たいがために生きとし生ける
ものの苦痛を容認したテラを。

 余談の余談として、九識を説いているとされるホケキョウというものがある。
 ホケキョウといえば、ホトトギスが托卵するという、ウグイスの鳴き声に近い。
 法華経と書くのだが、ここでいう花は、泥のなかにあっても清浄さを失わないとされる
蓮である。

 清浄をセイジョウと読むとするならば、ほかには、正常、政情、星状、聖上など、上の
ものを崇めるかのような書きかたをするものが多い。
 ショウジョウとも読めるが、今度は逆に、症状、商場、掌上などときて、あまり印象の
よくない言葉もあったりする。
 東方には寺というものがあり、清浄の名を冠したものも多数ある。
 寺はテラであり、大地を意味する言葉との韻を踏んでいる。土の字が入っているのもそ
のためだろう。寺とはつまるところ胎児ということになる。
 住職のことを坊主と呼ぶのは、赤ん坊とも掛けているからだろう。つちへんである坊。
 ちなみに、身分の高い男のことをお坊ちゃまというのは、坊のごとく敬うといった意味
合いから来ているのだろう。
 そして、またの呼び名を住持という。十字であるジュウジとは違うというところではあ
るが、従事という印象は共通しているといえる。十といえばテンであるからして、天国の
テンという印象とも掛けているのだろう。
 持ちという字はてへんに寺と書く。寺が手にしているものとは、モチで餅、米から作る
それのことである。
 水子の供養を受け持っているのは、テラとする寺が、胎児の加護を受けやすいからなの
だろう。そう、カゴのなかの鳥の。
 住職の仕事に、お経をあげるというものがある。経典を読むところから来ているそうな。
 経るとは、おなかが減るという言葉の読みと同じで、ヘルという。女性だと月経という
ものがあったか。
 ヘルといえば、地獄またはその女王のことである。確か兄弟にへびや狼の姿をしたなに
かがいたという。とりあえずテラつまりこの世の外にあるもので、月経として排泄された
ものとする意味もあるのだろう。
 経典のひとつに般若経というものがある。はんにゃといえば、似た音に「はにゃあ」と
いった感動詞があるのだが、ネコつまり根っこを連想させるものなのだろう。
 はんなりという言葉も似た音であり、意味は華のように上品であるというものだ。語源
は「花あり」である。
 はんなりと読むものには「埴破」というのもある。この場合の意味は、埴の玉を懐から
取り出して舞う雅楽を指す。そして舞いながら玉を破るのだという。はにわりと言ったほ
うが分かりやすいか。
 はにわりとなると、半月と書いてそう読むものもある。この場合は半陰陽のことである
が。
 ときに、ねこをかぶることを言いかえると「かまとと」となる。
 そこでミカゲは、自身が手にしているかまどを見やる。もちろんかまとととは意味が違
うのだが、あながち間違いではないと考えていた。
 かまどが子宮、つまり世界を形作っている入れ物だとすれば。ある意味では猫が、根っ
こがかぶっているものだといえるのだから。下部って、株、歌舞と。

 株は、木に朱と書き、茶色から赤色に変色したものであるという意味だ。やはり血の赤
でもあり、赤子の語源でもあるのだろうか。
 ちなみに朱は、朱砂つまり硫化水銀のことを指す場合もある。その鉱物は、賢者の石と
呼ばれる。株の部分が、人の培ってきた知識などを吸い上げる部分だとしたら、それは賢
者のごとき知恵を得るに決まっている。
 昼と夜の中間である、夕刻の空が赤い理由は意外とここにありそうだ。逢魔時ともいい、
幽霊や妖怪などといった、魔物に出会いやすい時刻であるといういわれである。あの世と
この世の狭間であるという意味ではそのとおりであるといえる。
 数珠や天珠という、王に朱の字を書くそれも、そこに由来しているのだろう。
 シュといえば、種であり、子種のことをいう。狩猟の狩のことでもあり、のちにしとめ
るという意味も秘められていそうである。
 ほかには手や首でもあり、首根っこという言葉も、木の根っこを連想させるところから
来たのだろう。そこをいちばん上とする、首位という言葉もある。
 主というのも似たようなものであり、ときには超自然、いわゆる神として崇められるこ
ともある。しかし同時に、根であるだけに、諸悪の根源という言われかたもしているが。
 呪という字もシュと読むことができ、ジュでもある。やはり樹のジュにも通じ、藁人形
に釘を打ちつける際にも木を壁とする。呪いが木を通じて行きわたるという考えから生じ
てのことなのだろう。
 ジュには「寿」や「授」など、祝いの旨を表しているものが多い。ほかには、需要や受
容などといった言葉としても使われている。
 呪いと祝いは紙一重であり、字が似ているのは偶然ではないのだろう。
 もう少し掘り下げて、ジュウについて考えてみる。おもに十の字が挙げられるが、住も
身近であるだろう。なにしろ屋敷などに住むことを表しているのだから。ついでに主従と
は、言葉どおり主人と従者のことである。
 獣をしとめるのは、狩猟用の銃。おもに食用とするために。にじみ出る汁は、知ること
のシルでもあり、賢者の石の原料にたとえられる。
 そこから連想される錬金術師というのは、料理人であるというわけか。
 汁といえば、シルフィードという、風の精であるシルフの女性形としてそう呼ばれてい
るものがいる。木の多い森のなかにいる印象の。フィードというのは、思いのほか供給と
いう意味にも掛かっているのかもしれない。

 さらにもうひとつ、シュと読む字に「酒」がある。
 もしかすると、これが肝であるといえるかもしれない。飲みすぎると肝臓にはよくない
のだが。料理の隠し味にも欠かせないものであり、着飾ることを意味するお洒落という言
葉にも出てくる。
 酒といえば、米を原料としたものが挙げられる。八方を表し、精神を意味するもの。発
泡酒は案外そのハッポウから来ていそうだ。
 酒を保管しておく場所は酒蔵といい、おおかたは木造による建築物である。
 ちなみに、酒に酔うと頭がくらくらする。ひどい場合には酒乱を引き起こす。
 シュラシュシュシュという一節があるが、酒乱のことを指しているわけではなく、修羅
道のことを言っている説が色濃い。
 いや、きんぴらごぼうをジュラジュジュジュと作る歌だったかと、そうミカゲは思い返
す。ごぼうはもしかしたら五芒星のことかもしれないとも。
 投げやりな気持ちで飲む酒のことをやけ酒といい、やけを言い換えると破れかぶれとい
う。その場合のかぶは株ではないが、ある意味では近いといえるだろう。
 やけという言葉には、焼けという命令が隠されている気がする。とりわけ薪をくべて。
 脂肪を燃焼させることもそうだろうか。その汗として出ていったものはどこへ行くのか
という話でもあって。
 妬けというと、恋の火花を散らすことであるのだろうかと思い当たり、ミカゲは頭を抱
える思いであった。

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