――アルファであり、オメガである。
この言葉の意味するところは、最初から最後まで全てを司っているといったところか。
ちなみに、アルファを表すαと、オメガを表すΩは、とある文字列の最初と最後である。
αから始まって、β、γと続いていく。個々でありながら、その全てが自身であるという
意味でもあるのだろう。
αとβの違いはなにであるか。
ほとんどの場合、最初に来たものと次に来たものという違いでしかないだろう。わざわ
ざ議論するようなことでもない。
しかし、人は存外にも、そのような罠におちいっているのだ。
αを永劫の苦しみと説いてみる。
かたちをよく見れば、抜けることの難しい、延々と同じところを回るさまを表している。
ならば、βは苦しみではないのかと問われれば、そうではないのだ。
こちらも結局は抜けることの難しい、永劫の苦しみでしかない。一度は区切りがあるた
め、解放されたかのように錯覚して、また同じ罠にはまるという寸法なのだ。
回転する方向を反転させたことも相まって、なおさら錯覚を起こしやすいのだろう。
もしくは、闇に覆われた世界と、光に包まれた世界の対比であるか。ちなみにこのどち
らも、雰囲気の違いによって気分が左右されただけであり、どちらの世界からも苦しみ自
体がなくなったわけではない。
その次のγとなれば抜け道を示唆しているということになるだろうか。ABCに置き換
えると、Cも抜け道を表していると言える。
次に、αを恋として、βを愛と説いてみる。
恋といえば、自分に足りないものを補うかのように相手を求めることにあるだろう。
愛となれば、逆に相手に与えるということになる。そして与えられた相手が受け取って
成立というわけだ。
しかし、そのありがたさを知るのは、痛い思いをしているからということになる。そし
て施す側も、その辛さへの想像がつくからそうするのであり、やはり痛い思いをしていた
ということになる。
どちらにしても結局、心が満たされない現状であるということには変わりないのだ。
恋は下心、愛は真心とはいうが、字を見ても分かるとおり、どちらも心がとらわれてい
る状態である。
もう少し突きこんだ話をすると、食事もままならないぐらいに貧困な生活を送っている
者がいるとする。
ここで彼が、水と食料を摂取しないと生きていけない仕様に違和感を覚えることは難し
くない。
しかし、呼吸をしないと生きていけない仕様に違和感を覚えることはだれからしても難
しい。
原理としてはそれと同じものであるだろう。
もっと単純にたとえてみると、αが口で、βが鼻、γが目のかたちを表している。
ちなみに、αから順にたどって行き着くΩはあごを表しているといったところか。あご
は顎門ともいわれていて、アギトと読む。オメガが門構えを表していて、角度によっては
アルファと同じような文字のかたちに見えるというわけか。
ついでに、鼻は花のハナで、それに準じる草はクサいとなって臭覚を司っているなどと
言ってみる。
目といえば、脳の中央線上にある松果体という器官は「第三の目」ともいわれている。
γの文字は、左右の目と松果体をつないだかたちであるともいえるだろう。
それにしても、目糞鼻糞を笑うやら、五十歩百歩やらとはよくいったものである。
ここで、へびにまつわる話をもうひとつ。
ウロボロスという、自らの尾をかむへびを図案化したものがある。
尾から頭の部分にかけて、素粒子、原子核、原子、分子、細胞と続いて、半分のところ
で人間と来る。もう半分は端折っていえば星や星雲、宇宙と来るのだが、詳しい説明は省
略する。
全は個からなり、個は全をなすということを押さえておけばじゅうぶんだろう。そして
すべては究極的にはひとつであるのだということを。
ちなみに、円環の意味するところは、おもに永続性である。完全やら無限やらといった
象徴でもある。死と再生、創造と破壊などを表しているともいわれている。
とにもかくにも、このかたちは「α」のようであるといえなくもない。また「Ω」を表
す顎で尾をかんでいることも含めて。
ならば「β」は、創世の神話でいえば樹に相当することになる。それは鼻であって花で
あり、同じ植物のくくりであるとすれば妥当なところか。
そうなると「γ」は果実を表しているということか。どことなく吊るされたかたちをし
ているところが、さらにそれを連想させる。
松果体という名称も、この果実から来ているのかもしれない。そしてどことなく胎児の
かたちをしているそれ。
ついでに、海を羊水として、陸を胎児とするならば、その果実は大地からの栄養分とい
うことになりうる。すると河が血管で、草木が体毛や髪に相当するのかという話になるが、
ひとまずここまでにしておく。
川はあの世とこの世の境目を表していて、皮は体内と体外の境目である。川はかわで皮
であるのだということまで語っていると切りがなくなりそうだ。
さらにここで、視点を逆にして考えてみる。いわゆる天地がひっくり返したものだ。
知恵の樹を上下に反転させた図である。地が天となり、木の実や葉が地上の生命を表す
とするもの。
この場合、樹は三途川に相当するものとして、天と人をつなぐものでもあり、操り糸で
もある。草花もそのたぐいであるのだろう。あの世とこの世の境目の死に際、そこできれ
いな花畑が見えるというのも、この辺りから来ているというわけだ。
へびは、実のなったりんごをもいで、人もとい神に献上する。人間という果実を死へと
いざなう、天使やら死神やらとして語られているというわけか。それならば幾らか聞こえ
はいい。
人々から、死に対する不満の声が上がったとき、うらみを向けさせる矛先がへびという
ことでもある。実は樹木のほうが果実を吸い上げているとは気づかせないように。まして
や、その吸い上げさせているもの、陸地こと胎児、その母なるもの、地母神へと行きつか
ないように。
大地は与えるもの、自然はめぐみをもたらすものと思ってもらわないと都合が悪いわけ
だ。
なるほど、赤子をかわいいと思うような心の仕様と、母を神聖視するような世相はここ
から来ているわけか。ひとりではママならない状態で生まれさせられ、世話をしてくれる
ママのありがたみをその時点で植えつけられるというわけでもあり。
そのうえさらに、地母神をこのような状態にしたのは何かという疑問もあるが、問題の
核はこの地母神という概念にあるため、ここに焦点を当てていく。
それで、樹木自身は奪っている意識などなく、与えているつもりであることがほとんど
であるのだろう。
特に、生まれることを善とした場合には、天より赤子を授けてやっているという意識な
のだろう。そして誕生は祝福してしかるべきものというのが人類に共通した認識である。
樹木に敵意を向けようものなら、恩を仇で返したとされるというわけだ。
ついでに、毒りんごという発想は、ただでは食べられまいとする意趣返しなのだろう。
樹木といえば、現世では多くの家に使用されているが、それもまた身を守る役割を果た
していて、人々から感謝されやすくもあるのだ。
加害者であると同時に被害者であるもの。疑わしくとも疑ってしまっては申しわけない
という罪悪感、またはそうしたことによって攻撃されかねない恐怖心。そもそも本人に悪
気がない場合は周囲もそこに気づきにくい。
それが真相を見破らせない絡繰り、樹がへびよりも強固な第二の盾となっているのだろ
う。
大ざっぱに言うと、樹はポンプなのだ。実が心臓とするなら、へびは腸であり、樹は胃
つまりは腹である。中腹とはよくいったものだ。
腹をポンポンというのは存外ここから来ているのかもしれない。ポンポン産むという表
現もそこから派生したのだろう。
ところで、地母神の別名はガイアであり、または「ゲー」という。
胃からこみ上げてきて嘔吐するときの擬音がゲーとして定着した理由もそこにあるのだ
ろう。
地母神へと続く、扉を意味するゲートとはゲー戸でありゲー門といったところであり、
ゲーモンはデーモンのことであるだろうか。いわゆる閻魔大王という観念のことだろう。
案内を意味するガイドというのも、ガイアへの戸であり門であるということなのだろう。
それはとりわけ天使やら死神やらといったもので。連れていかれることに抵抗感を覚えさ
せないように、ありがたいものだと思わせるように。
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