+. Page 032 | クロヴィネア編 .+
 夜もふけてきた頃であるが、星はひとつも浮かんでいない。先ほどまで雨が降っていた
せいだろうか。
 薄明かりの電灯すら設置されていないこの場所が田園地帯の片隅であることは、足を地
に着けるか嗅覚にたよる以外に、確かめる方法はないだろう。
 そんななかで聞こえてくる、だれかが、はたまたなにかが走っているような、律動的な
音。ところどころで水たまりを踏んでおり、それが跳ねる音も伝わってくる。
 足音のぬしは、自身に水がかかったことは気にとめてもいない。そんな余裕などないと
いった様子である。
 そのぬしは、ゴリラに近似した生態の獣であった。腕と横腹を負傷しているが、それを
かばうゆとりさえないといったふうな。
 獣が向かっているた先には、かろうじて雨風をしのげる程度のはりぼてのようなものが
あった。付近に落ちていたらしいがらくたを寄せ集めた、無作法に組み立てられたもの。
 そのなかには、まだ幼子ともいえる体つきの、ゴリラに似た数頭の動物がいた。みな衰
弱しきっており、うずくまるようにして身体を横たえている。どうやら空腹が極限にまで
達しているようだ。
 やがて、野を駆けていた獣が、その場に戻ってきた。そして、そこにあるはずのほかの
気配が感じられないようで、さぐるようにして幾度か不安げに鳴き声をあげる。
 はりぼてのようなもののなかを確認する獣。なかにはすでに物言わぬ形相となっている、
自身と同種の生態の、数頭の動物たち。
 暗く冷たく、ひっそりとしたこの地では、獣の甲高い悲鳴が、いつまでとしれず響きわ
たっていた。

 夜が明け、朝となる頃。なだらかで閑散としたこの地の都市部。飲食店が建ち並んでお
り、深夜まで宴に高じていたためか、人々が出歩いている姿はまだまばらである。
 そんななかではひときわ目だつ、LSSという文字の刻まれた看板を掲げた建物。内部
には、がっちりとした体つきであり、強面といった顔つきの、中年の男性。彼のいる窓口
を挟んだ場所に、成人する手前ほどの年ごろの男女がふたり。
「ふたりとも、ご苦労だった。勤めは成功したようだな」
 見かけとは裏腹に、険しい様子はなく、穏やかな調子でねぎらう男性。
「それが……、逃がしてしまいました」
 ふたりのうち、彼、レキセイが、たじろいだ様子でそう告げる。
「傷を負わせるというところまではいったんだけどね」
 もうひとりのほう、彼女、リーナは、やれやれといわんばかりにそう説明した。
「そうなのか? 依頼主からは、達成であるとされてるが」
 レキセイとリーナは、あっけにとられた様子で、男性のほうへ目をやる。
 畑を荒らす動物を退治という本来の依頼は達成できなかったものの、請け負ってくれた
相手がまだ成人していないことを考慮したらしい、依頼主たちからのせめてもの配慮であ
ったのだろう。
「結果はどうあれ、向こうが満足したというなら成功だ。報酬を受け取ってくれ」
 報奨金が差し出されると、こわごわとした調子で、窓口にいる男性から受け取るレキセ
イ。彼は、複雑そうな面持ちで、手のなかに収めたそれを、包むようにして握りしめた。
 静かな感傷に包まれた、そんないっとき。
「きゃあああああ……!」
「ひっ、ひいいい」
 そんな静寂を切り裂くかのように、外から聞こえてくる、人々の甲高い声。
 レキセイは、はじかれたようにして外へと向かっていく。待ってと請うリーナの声さえ
届いていない様子で。

 町なかの、広くあいている場所。
 そこには、お世辞にも柄の良いとはいえない男が三人と、あちらこちらへと逃げ去る人
々。逃げ遅れた女や子どもたちは、男たちに捕らえられ、もがくことを忘れて、表情は絶
望に染まる。下卑たように笑う男たちと、捕らえられたものたちの己の行く先の運命への
嘆き。
 不意に、白銀色に瞬く閃光のようなものが、この広場へと向かってくる。いや、髪には
銀がかかっており、光が走ったかのような俊足であるが、人間である。それも、青年と少
年の中間ほどの容貌の。
 そんな彼がやってくると、男たちの胴を次々と蹴り上げる。そして、捕らえられていた
者たちは、気を取り戻したようで、足をもつれさせながらもひたすら逃げ去っていく。
「ぐ……お……」
 男たちは、起こったことの把握が追いついていないようで、ひどくにぶいはたらきの悲
鳴をあげている。
 銀髪の彼は、そんな男たちの様子に気付いていないようで、地に着けたてのひらを重心
にして、男たちの足元を蹴り払うなど、なおも攻めこんでいる。それは、われをも忘れて
いるふうな、静かではあるが激しい感情を原動としたような。
 ひとしきり暴れると、彼は、顔に似合わず、男たちを見下ろすかたちでたたずんでいる。
「こ……の、やろう!」
 男たちは、闘志を奮い立たせながら立ち上がろうとする。銀髪の彼は、それでもなお見
下ろす姿勢を崩さない。
「レキセイ!」
 後ろのほうから聞こえてきた、甲高い少女の声。
 レキセイと呼ばれた銀髪の彼が、声のしたほうを振り向くと、
「……リーナ」
 と、ほうけたように、彼女の名前を呼び返す。
 リーナと呼ばれた薄い紅色の髪を持つ彼女が、槍を携えてやってくると、
「もう、いつもそうやってすぐ飛び出していっちゃうんだから」
 この状況にもかかわらず、あきれたふうに不満をもらした。
「おらあ、ふちのめしてやる」
 ふたりがそう話している合間にも、男たちも次々と立ち上がる。
「まあいいわ。とりあえず、こいつらをなんとかしましょ」
 そう言うと、リーナも即座に槍を構える。
「いや、でも……」
 その傍らで、煮えきらないことがある様子のレキセイ。
「うおおおお」
 そうしている合間にも、小刀を突き出した男たちが、殺気を帯びた叫びとともに、レキ
セイとリーナのほうに向かってくる。
 即座に反応したリーナは、その小刀を、勢いづけて槍の先ではじき返した。レキセイの
ほうも、はじかれたようにして、その男の腹部を蹴り上げた。
 男が身をもだえている合間に、
「こいつらを放っておいたら、また大変なことになるわ。かといって、レキセイひとりで
三人も相手するのは、骨が折れるでしょ。大丈夫よ、しばらく動けないようにしてやるだ
けだから」
 リーナがそうまくしたてると、レキセイは、自身をむりやり納得させるかたちでうなづ
いた。
「しねやあ!」
 そして、立ち遅れていた男たちのうちふたりも、小刀を突き出して、レキセイとリーナ
のほうに向かってくる。
 今度は構えるためのゆとりがあったためか、レキセイとリーナは、向かってくるふたり
に、それぞれ一対一で応戦した。向けられた小刀をよけ、男の足場を崩した後、そのすき
を突いてそれを奪い取るレキセイ。小刀を向けている男の手を槍の先で切りつけ、それを
落とさせるリーナ。そして、レキセイは、落とされたもう一本の小刀を拾いあげた。
 しかし、レキセイとリーナに一息つかせるひまもなく、始めに負かしたはずの男が立ち
上がり、小刀を拾いなおして再び襲いかかってきた。この場は、レキセイが、小刀を手に
していないほうの手で、その男の手をつかみ、さらにリーナがけん制することでしのいだ。
 その直後にも、ふたりの男が、小刀を取り返そうと、レキセイへと襲いかかる。不意を
突かれたレキセイは、手にしていた二本の小刀を落とし、奪い返されるかたちとなった。
 こうして振り出しに戻る形勢。この繰り返しでしまつのない闘争の幕開けであった。

 くりひろげられるこの戦いの舞台には、いつからとしれず、遠巻きに眺めている観客も
とい民衆たちがちらほらと集まりはじめた。
 役者に相当する者は、お世辞にも柄が良いとはいえない男が三人と、成人する手前であ
る年ごろの男女がふたり。
 青年と少年の中間ほどの顔立ちの、銀色の髪の彼。そして、彼よりやや年下であるがま
だ少女ともいえる顔立ちの、薄い紅色の髪の彼女。
 彼、レキセイが、男のうちひとりが振りまわしている小刀をよけながら柔術で応戦して
いる。その合間に、ほかのひとりの男が向けてくる小刀をなぎはらうようにしてはじく彼
女、リーナ。すきができたかと思えば、体勢を持ちなおして手の空いている者が次々とふ
たりに襲いかかってくる。
 やがて、三人のうちひとりの男が、小刀を持っている手をひいた。
 そう思いきや、今度は、武器を手にしていないレキセイのすきを突き、彼の腹部をなぐ
りつけた。あまりの痛撃に、レキセイの身体は宙に浮く。
 予想だにしていなかった攻撃に、レキセイは、よけるひまがなかったうえに、着地点を
見失い、身体ごと地面にたたきつけられるかたちとなる。
 その合間にも、ひとりの男と応戦しているリーナに、もうひとりの男が加わる。リーナ
は、瞬時に反応し、ふたりを同時に相手にしているが、さすがに難色を示しているようで、
彼女が力つきるのも時間の問題だろう。
 一方で、レキセイのほうにも、先ほどなぐりかかってきた男の足が振り下ろされようと
している。間一髪のところで、寝転がるかたちでよけきるレキセイ。
 レキセイは、てのひらを地面につけ、身体を起こしている合間の一瞬で考えついていた
ことがあった。
 ――そうだ。どこかの建物を壁の代わりにして、それを背にして足をつけ、それを自身
の身体ごと作用させた勢いで一気に片を付けよう。
 早速どこかの建物のほうへと向かおうとした矢先、凍りついたようにとまるレキセイ。
民衆たちがあらゆる方角にいるのだ。この男たちの目をそこに向けさせてはいけない。そ
んな逡巡がレキセイの頭のなかを駆けめぐる。
 広場のほうに目を向けている民衆たちは、急にくりひろげられた展開に、息をのむよう
にして見入っている。
 あらゆることに考えをめぐらせるひまを与えられることもなく、レキセイに次の攻撃が
加えられる。リーナのほうも、息切れしはじめており、動きも鈍くなってきた。
 うなだれるようにして倒れこむレキセイ。とはいえ、とっさに地面に手をついたため、
座りこむかたちで収まった。そこで、地面に目をやった彼は、なにかに気づいたようには
っとした。
 レキセイは、地面についている手を軸として、自身の身体を浮かせる。その手首を回し
て、身体に力をこめて作用させると、彼の足が、男の腹部に直撃した。その勢いで、男の
身体は飛ばされる。
 その男の身体は、リーナが応戦している最中の男たちにぶつかっていった。
 リーナは、男たちが均衡を崩しているすきをのがさず、槍術で制していく。レキセイも、
片足を軸にして回し、もう片方の足で蹴り、とどめをさしていった。
「はああ、やっと終わったあ……」
 男たちが気絶したことを確認すると、槍を杖の代わりにして身体を支えるかたちで、気
の抜けたような声をあげるリーナ。レキセイは、呼吸はそれほど乱れておらず、地に足を
着けて立っているが、顔色は蒼白に染まっている。
 今まで傍観していた民衆たちも、男たちが気絶したと認識するやいなや、連鎖反応を起
こしたかのようにいっせいに広場へやってくる。
 すると、彼らは、その気絶している男たちをなぐったり蹴ったりしはじめた。次いで、
容赦なく浴びせる罵倒。矢継ぎ早に燃えひろがっていく炎のような激しさはとどまるとこ
ろを知らない。
 レキセイの顔色は先ほどにも増して蒼白で、彼は、身体の動かしかたを忘れたようにた
たずんでいた。視線は民衆たちや先ほど交戦していた男たちのほうへ向けられているが、
目に映っている人と人の区別はついていない様子でがく然としている。
 レキセイ頭のなかには、自身がなしたことへの疑念が渦まいていた。正当防衛のうちと
はいえ暴力をふるうようなことまでしてなにをしていたのだろうというふうな葛藤、とも
すれば後悔しているふうな。
「うるさいなあ!」
 そのとき聞こえてきた、少女の大声。民衆たちはびくついたように静かになった。レキ
セイもはっとしたようにそちらへ目を向けた。
 声のぬしは、レキセイの相棒であるリーナのものであった。彼女は、槍を携えたまま仁
王立ちしている。
「邪魔者に手をくだして排除しようとするなんてお下品なことなんだから、緩やかににら
みをきかせることで追いはらえって、子どものころに教わらなかったの!?」
 そう告げられると、民衆たちはがく然とした様子で押し黙った。自分たちを助けてくれ
た少女に、あらゆる意味で言い返すことはできなかったのだろう。
 レキセイも、分かったような分からないようなといった、ぽかんとした面持ちでリーナ
を眺めている。そんな彼の顔色は、先ほどよりは回復してきたようであった。
「とにかく、リベラルの支部のほうへ報告に行ってから判断を仰いでくるんだから、これ
以上余計なことしないでよね」
 こうして、凝固されたような空気が流れるなか、リーナの締めくくりを機に、この場は
幕切れとなった。
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