+. Page 020 | セイルファーデ編 .+
 セイルファーデの朝はきらびやかであった。
 都じゅうに張りめぐらされている水路や、その中心にある、幅広で豪奢な噴水が、陽の
光を浴びて乱反射している。その様相は、ガラス細工さながらである。数々の建物も、負
けじと豪奢な造りで。これが、この「水の都」のいつもの風景。
 観光客や旅人たちが利用するための宿泊施設も、例外なく建てられている。その一室に
は、ひとりの少女が、寝台に横たわっていた。もう、ずっと、夢のなかに閉じこめられて
いるかのような形相で。カーテンから漏れてくる光が、彼女の淡い紅色の髪を映えさせる。
 やがて、日の光の存在に気が付いたのか、ぱちりとまぶたをひらく少女。そして、寝起
きであるとは思えないほど無造作に身体を起こす。余程の濃い眠りに就いていたのだろう
か、あどけなさが残る顔つきのわりには、どことなく悟ったような表情。
 彼女のいるこの場所も、外界と同じく、きらびやかにいろどられていた。ただ、就寝の
妨げにならないための配慮からか、部屋全体はシンプルであり、扉や電灯、寝台などにも
際立ったはでやかさはなく、装飾はさりげなく施されている程度である。
 そして、彼女が乗りかかっている寝台の横にある、もうひとつのそれ。そこにいるはず
のもうひとりの姿はなかった。ただ、その寝台の上には、無防備にひらけられたままの荷
物が置いてある。しばしの間、出かけているのだろう。
 彼女はというと、身動きする様子はなく、きょとんとしている。辺りは、冷えるような
静寂が支配していた。
 そのとき、耳を凝らしていないと聞きとれないほどの音で、扉が開かれる。彼女は、は
じかれたように、寝台から下り、音のしたほうへと駆け寄っていく。
 その先にいるのは、彼女よりやや年上といったところの彼。青年というにはまだ若く、
少年というにはたくましい。やや紫の掛かった銀髪が特徴である。
「レキセイ……」
 彼女が、放心したように声を上げると、
「……あ、リーナ、起きてた?」
 レキセイと呼ばれた彼は、どことなくぎこちなく、焦燥まじりに応じる。
「ううん、今、起きたところ……」
 ついで、ぽかりとしたままの表情で返す、リーナと呼ばれた彼女。
「そう……。ええと、ただいま」
「う、うん。おかえり」
 そして、どことなくぎこちない感じで、朝の儀式をする両者。とはいえ、気まずいとい
った雰囲気ではなく、向かい合う彼らのあいだに流れているのは、ただただ緩やかな静寂。
 ただ、リーナは、レキセイのほうを見やるでもなく、相変わらずぽかりとした様子であ
ったが。
「ただいま……っていうのも、変だったかな。ここには一泊しただけだったし」
「そうじゃなくて……、ラフォルがね、家には勝手に入っていいけど、入りにくかったら
ただいまって言うといいんだって言ってたのを思い出したから」
 レキセイがやや戸惑いながらたずねると、リーナはぽうっと明かりが点いたように語り
だす。
「そっか。リーナが、初めてあの家に来た翌日のことだったかな」
 そっと目を閉じてそう言った後、ゆらゆらとした動作でありながらも流れるような足ど
りで、部屋のなかへと入っていくレキセイ。
「うん! それからね、カンツァレイアのほうによく連れてってくれて。家でもいっぱい
遊んでくれて。レキセイも一緒で。楽しかった」
 リーナも、やや弾むような足取りで、流れるように彼に続いていく。
 彼はというと、自身が使っていた寝台に腰を下ろすと、めい想するように目を閉じ、
「そっか…………」
 ぽつりと、そうつぶやいた。
 彼女のほうも、彼と向かい合うかたちで、自身が使っていた寝台に腰を下ろした。
「そういえば……、あのときのラフォル、妙に張りきってたな。気持ちがはやるのは自然
なことだとは思うけど、それを差し引いても、隙がなかったというか……。退屈な日なん
て無縁だったぐらいで」
「そうなの? 精力的なのは今でも変わらないと思うけど」
「というよりも、しばらく休職してたな。その合間でも、本を出版して稼いではいたみた
いだけど」
「そうだったの。ラフォル、何か書いてるなとは思ってた。リーナは眺めてただけだった
から知らなかったけど、それで本がいっぱいあったのね」
「うーん、本を書くために休職してたかどうかは分からないけど……」
「あっ、それからね。おもしろいお料理もいっぱい教えてくれたんだよね」
「うん、あのメニューの発想は斬新だったな」
「ふふ、帰ったら、また新作のメニューを教えてもらうんだ」
「それじゃ、俺は、できあがったのをもらうよ」
 だんだんと、ぎこちなさが抜け、緩やかな会話が繰り広げられていたそのとき、
 ――ぐううう…………。
 ――くううう…………。
 突如として響いてきた、ふたつのくぐもった音。互いに一歩ずれた頃合で響きつつも同
じ調子で。ちなみに、発せられた箇所は、それぞれ違う。
「……うう、料理の話をしてたらおなかすいちゃった」
 リーナは、おなかに手を当てながら、口調のわりにはなにげなく告げる。すると、レキ
セイは、すっと腰を上げ、
「とりあえず、食事をとりにいこう。まずはおなかをいっぱいにしてからだ」
 なにげない言葉のわりにはどことなくそわそわしている様子の彼。
「う……ん……」
 彼女が、やや困惑したようでありながらも、彼を見あげて返事したとき、
「あっ、そうだ」
 彼は、なにかを思い立ったように、ポケットからなにかを取り出そうとしている。そし
て、
「これ……」
 それを彼女のほうへと差し出す。彼の手のなかにすっぽりと収まるほどの大きさの箱。
「こんぺいとう?」
「星……ではないけど、それには近いと思ったから。だから、リーナにわたそうと思って
たんだ」
 彼女は、彼をおずおずと見あげた後、差し出されたままのそれを手に取る。
「ありがとう」
 そして、小さくはにかんだ表情でそう言った。
「実は、これが残り最後のひとつだったんだ」
「そっか、それじゃあ、ラッキーというか、希少だったんだね。カーナル神に感謝しなき
ゃ」
「いや、食べ物のほとんどが売りきれてたんだ。それに、やけに人通りが多くて、どこと
なくそわそわしてたような……」
「まあ、考えてもよく分からないし、とりあえずはごはん食べに行こっ」
 そう言いながら、レキセイの手を、両の手で緩やかにつかむリーナ。
 すると、彼は、考えることをいったんやめたようで、彼女に促されるままに歩きだして
いった。

 宿泊施設には食堂が置かれている。
 朝になると、宿泊客でにぎわい、数々の彩られた料理が並ぶ。彼らの談話する声と、食
事のにおいで包まれることだろう。しかし――今は、客の姿がひとりも見当たらないどこ
ろか、食事すら出される気配がない。ただ、外の景色を一望できるほどの広い窓と、繊細
さと気品に満ちたテーブルやシャンデリアなどが設置されているこの場があるのみで。
 やがて、階段のほうから、ふたり分の足音が聞こえてくる。
「あれえ、早く来すぎたかしら。それとも、遅かった?」
「いや、俺が帰ってきたときもこうだった」
 下りてきたのは、先ほどまで部屋にいた、レキセイとリーナ。
 一方、奥側の厨房では、どことなく焦燥している調理人が数人。
「……ったく、配達どうなってんだ。お客に出す分すら作れねえじゃねえか」
 どこへ向けられたでもなくぼそりと発せられる声。そのとき、
「あのお」
「どうかしましたか」
 出入口の前から聞こえてきた、ふたり分の声。レキセイとリーナだった。
「あん? ああ、確か、ここの宿泊者だったか」
 調理人の男性は、一瞬、だれに話しかけられたのやら分からないといった反応を示す。
やがて、ふたりの姿に気が付くと、我に返ったように態度を軟化させた。
「うん、朝食をもらおうと思って」
「今、材料を切らしてるところだからな。悪いが、外食で済ませてきてくれ」
「えっ、もしかして、食べ物がほとんど売りきれだったこととなにか関係があるの?」
 と、レキセイのほうを向いて、疑問を投げかけるリーナ。
「一応、支部のほうに報告しておいたほうがいいな。既になにか行動を起こしてるかもし
れないけど」
「支部って、あんたたちLSSの団員だったのか?」
 そして、なにかの思い当たる話を聞くと、勢いよくまたたきながら話を投げ返す調理人。
「はい、各支部のあいだでは通信が可能ですから、ほかの地方からとりよせてもらえるよ
うに頼んでみます」
「ああ、そうしてくれると助かるよ。ちなみに、うちがいつもとりよせてる先は、クロヴ
ィネアからだ。うちに限らず、ほとんどがそうだと思うがな」
 なにかの力が抜けたように語る調理人の説明を聞くと、ふたりは、それを合図に、外へ
と歩きだしていった。

 都のなかには、まだ朝の時刻だというのに、どことなく急いている人々の姿。彼らは、
同じ方向へ、引き寄せられるようにして歩いている。その先にあるものは、なんの変哲も
ない飲食店だった。
「うわあ、レストラン、どこも並んでるね」
 そんななか、あどけない様子で言うリーナの姿。
「というよりも、どことなく殺伐としてるような……。おおごとにならないといいけど…
…」
 そして、彼女のやや後ろのほうにいるレキセイが、くぐもった様子で告げる。
 そこへ集った人々はというと、暴動は起こしていないものの、店の門前へ押し寄せるよ
うにしている。
「もうっ、考えすぎだってば」
 彼女は、困惑の気味がありながらもそう告げたかと思えば、
「でも、リーナたちも、食べるところ、どうしよう」
 ぱっと表情を変え、少しだけ考えこむ様子で次の言葉を発する。
「……先に支部のほうへ行ってみよう。このままだと、俺たちも食事にありつくどころで
はないだろうから」

 LSS――民間で起きた問題を解決することを目的とした機関。この国の各主要都市に
は、支部が設けられている。
 この都に置かれているLSSの建物の内部、窓口のほうでは、かっぷくのよさに加えて
ごつさの目立つわりには穏やかな印象の男性が、書類の整理をしているようだ。ただ、な
にかに焦燥しているようであるが。
「まったく。どうしたというのだ、あいつは」
 行き場をなくしたようにぼそりと発せられる声。そのとき、
「こーんにちはー?」
「ええと、失礼します」
 出入口のほうには、年頃の男女が一組。まだあどけなさが残る彼女と、青年と少年の中
間くらいの彼が、そろそろと入ってくる。
「うん? おお、君たちか。依頼を受けに来てくれたのかね」
 受付担当の男性は、一瞬、だれが来たのやら分からないといった反応を示す。やがて、
レキセイとリーナの姿に気が付くと、我に返ったように、友好的に話しかける。
「それもあるんだけどね。なにか考えごと?」
「都じゅうで食料が不足してるようなのですが、もしかしてその件で……?」
「ああ、関所の通行どめどころか、列車も何日も前から運行停止されてるようでね」
「ええ!? 列車って、物資の運搬とか、生活には必要不可欠なんでしょ」
「どうやら、賊を取り締まるためのようでな。せめて、物資の運搬くらいさせてもらえな
いかと交渉したんだが、軍側は頑として通さないとのことだ。運営も困っているらしい」
「いくら軍の命令とはいえ、市長の介入があれば無効になるはずですが……?」
「そこなんだ。彼の屋敷に直接出向いてみたのだが……、雇われたらしい警護のふたりに、
取り込み中だからと言われて、なんども追い返された」
「取り込み中というよりも、完全にだれも招かないつもりかもしれないな。一応、俺たち
のほうでも話に行ってみようか」
 と、リーナのほうを向いて、話を持ち出すレキセイ。彼女のほうは、はなからそのつも
りだったのか、なにを言うでもなく、彼のほうへ視線を合わせてうなずいた。
「彼らは、対応は丁寧だったんだが、ずいぶんと鍛えられた体つきだった」
 一連の話を終え、だれからともなく、口を閉ざす。担当者の様子からは、先ほどの険し
い表情は消え去っているようだ。穏やかな沈黙。それからまもなく、
 ――ざわ……っ。
 ――ざわざわざわざわ…………。
 外のほうから、不意に聞こえてきた、民衆たちの声。大半は大人たちのものであるが、
かすかにきんきんと響く、子どものものもまじっているようだ。
「……っ、急いだほうがいいな」
 それだけを言うやいなや、きびすを返し、外へと駆けだすレキセイ。
「あっ、待ってよ、レキセイ」
 リーナも、追いかけるかたちで、その場を後にしていった。
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