+. とあるホテルマンの憂鬱(後編) .+
 深夜――といっても、時刻は夜明け前ぐらいだったと思う。
 慣れない環境だったためか、目が覚めてしまった俺は、なぜだか部屋を出てロビーのほ
うへと向かう。
 すると、フロントには人――というよりも彼であろう。こんな時間であってもそこに立
っているのか。まったくご苦労なことだ。
 彼は、壁に背を預けたまま、なにかを考えこんでいるようだ。数時間前に接客していた
ときの表情とはうって変わって、ずいぶんと陰うつな面持ちで。
 このまま、放っておいてやって、俺は部屋に戻るべきだろう。そう思ったのとは裏腹に、
俺の足は、彼のほうへと歩みを進めていく。
 彼は、長く、重い息をはく。怒りも悲しみも超越した、諦念をまとったため息。深淵の
底からついたものではないかと思わせるような。
 そして、近くにやって来た俺の姿に気がつくやいなや、
「おや、眠れませんか」
 また笑顔を作ってそうたずねてくる。
 やはり、彼の憩いのひとときを妨げてしまったのかもしれない。笑う必要のないときに
暗い表情をして均衡をとっていたのだろうと思うと。しかしながら、笑わなくともかまわ
ないと言うのもおかしな気がしたため、そのままもてなしを受けることにした。
「普段の環境とはだいぶかけ離れてるからかな。つい目が覚めたんだ。君は、あれからず
っとここに立ってたのか」
「わたくしなら大丈夫ですよ。別の時間にきちんと寝ておりますから」
「そうか、ご苦労だな」
「はい、お互いに」
 彼は、否定せずにねぎらい返してきた。
「いや、俺は別にそういうのではないさ」
「確か、出張でいらしてたんですよね。それならそういうことです」
 まったく、なんてことだ。俺よりふたまわり以上も年下に見えるのに、人への気配りと
いうものができている。同僚どころか上司とてこのような言葉は掛けてこないというのに。
「君は気立てがいいんだな。俺の周りの者なんて、俺がどれだけ働いても、ねぎらいの一
言すらない。それどころか、使い捨ての資材かなにかと勘違いしてるのではないかという
扱いぶりだ。いや、あれはもうごみ箱のなかのぼろぞうきん状態だな」
 さすがに、品性の漂うこの彼を前にして、便所に落とされた排泄物のようだなどとは言
えなかったが。
 俺がひとりで納得したかのようにつぶやいていると、
「あはは」
 爽快に突き抜けるような笑い声がした。彼が笑ったのか、作りものの表情ではなく、本
当に。
「申し訳ありません。たとえがうまいなと思ったので、つい……」
 彼はまだどことなく笑いをこらえながらそう述べる。いや、別に気を悪くしていないが。
かなしまれたりなどするよりは断然いいことは確かだ。
 それよりも、彼のこの素顔のほうに関心がいっていた。意外なところに笑いのつぼがあ
るというのも興味深い。
 それからも、俺は、仕事に対する愚痴のようなことを語っていた。彼の、話しやすい人
となりによるところも大きかったのだろう。
「信念に基づくなりわいであるというのでしたら、いばらの道とはいえ、それも重要な事
柄でしょう。しかし、ひとえに優先させるべきこといいますと、本人の体や心といった部
分なのですよ」
 俺の愚痴に受け答えている彼は、そう前置きして続ける。
「ここで問題となるのは、あなたが会社のためにと思っているのと同じぐらい、会社もあ
なたのことを思っているかということです」
 そう言われて、俺ははっと息をのむ。
「こうしてあなたに泊まっていただいて、わたくしの生活はその資金で成りたっているの
ですから、感謝こそすれ、口を出すべきでないとは思うのですが……」
 まさかそのような見方があったとは。ほんの少しの報われた感じと、おどろきの連続で
あった。
「人と人との間柄はもちろんですが、人となにかの関係にも、波長といいますか、共振性
が重要なのです。その均衡がかたよりすぎていますと、長続きしないどころか、そう遠く
ないうちに崩壊を迎えるでしょう」
 だから、相手の器量以上のものでぶつかってはいけないのだと。利用と協力の違いは、
相手への敬意や尊重の有無だとも。
 俺は、感心しながら、なにかが抜けたような息をついて、
「言ってることは分かるが、君ぐらいの歳でそこまで思い至るのは珍しい気がする」
「ただ料理をするときの、材料や調味料の組み合わせとか火加減とかで考えてみただけで
す。できあがった後の味ってだいじですよ。甘すぎてもからすぎても、苦すぎてもだめな
んですから」
 彼は、緩やかな弧をえがいたくちびるに指を当てて、なんということはないというふう
にそう述べるものだから、
「なるほど。割れなべにとじぶたというわけか」
 俺がそう言ってみたりすると、
「はい。運ぶときは持ちつ持たれつです」
 なんてにこやかに返されてしまった。
 そして、彼は、それにですねと前置きすると、
「あまりにも不相応がすぎると、自分なんて最初からいなかったほうがよかったんじゃな
いかって考えに行き着いてしまうものなんですよ」
 なにを言い出すかと思えば。彼に限ってそのようなことは決してないと思う。それどこ
ろか嫌味にしかならないと思うぞ。あれだけ多くの人間に好意を寄せられているのだから。
「小皿にシチューを盛ると、あふれ出るどころか、その器自体がべとべとになるでしょう。
どうせならそんなことをしなければよかったと思う心理と同じですよ」
 俺はよほどあっけにとられた表情をしていたのだろう、彼はそう付け加えてはいたが。
「まあ、身もふたもない言いかたをすると、SもMもほどほどにということですね」
 これもまた、作りすぎと食べすぎにはご注意を。などという軽やかな調子であった。
 それにしても、エスやエムとはいったいなんのことだろう。そう考えたところですぐに
思い当たった。ああ、服のサイズのことかと。
 そういえば、背広とワイシャツの寸法が合わなくなってきているなと思い当たった。買
い替えどきかもしれないと思ったが、それも面倒だなと思いながらため息をついた。

 そうして彼と話した後、俺は、自身の気持ちが軽やかになっていることに気がついた。
 ついでに、この人生からも解放されたい欲求に駆られていた。死にたいとまで思ってい
るわけではないが。
 そもそも、この彼を前にして、そのようなことを告げるのは、ひどくかなしいことのよ
うに思う。だから言葉を変えて言うならば、
「君がなんの使命があって生きてるのだ」
 ――しまった! 本当に口に出してしまった。これは、俺が自分に聞きたかっただけの
問いだ。
 しかし、彼は、このいきなりの問いかけに、不審に思った様子もなく答えてくれた。
「それは分かりません。分かっていたとしても、そのとおりにしたとも限らないですし。
理由は後で勝手に決めたいかなとも思いますし」
 あくまで、だれかの意向ではなく、自身の思うとおりにするということか。
「そこでなのですが、なぜ生きていたいかという観点でなら、訳はございますよ。夢なん
ですけどね、途方もないような」
 夢か。俺も、昔はあった気がする。いや、そもそも見ることさえできていただろうか。
「それに対して、わたくしのしてるようなことといえば、それこそ焼け石に水みたいなも
のなんです」
 それでもですね。そう言って、ぱっと顔をあげると、俺の目線に合わせて、
「こうしてだれかと触れ合ってると、意味はちゃんとあるって思えるんです。だからまだ、
泥まみれになろうが、傷だらけになろうが、踏んばっていこうかと」
 彼は言う。光が射す気配がまったくなさそうな、暗い空間を眺めているかのように。そ
れでも、いつ来るともしれない夜明けを見据えるかのように。
 いつでも終わらせることはできるのかもしれないが、敢えてそれはしないということだ
ろうか。
「とにかく、死ぬときに笑っていられるぐらいにしておきたいですね」
 彼にとっては、生も死も、どちらがいいか悪いかではなく、どちらも等しく尊いことで
あるのかもしれない。
 しかし、生きたいというのはともかく、死にたいというのは、やはり人聞きが悪い気が
する。
「君は、死にたいと言われれば怒りがわいてこないか」
 俺はまた無意識のうちに口に出して聞いていた。そして彼はまた、気を悪くした様子も
なく答えてくれる。
「怒りをぶつけたとしても、それはエゴの押しつけにしかならないでしょう。もちろん、
死にたいと言われるのはかなしいことです。そのかたにとって、そう思わせるなにかがあ
るということですから」
 ううむ。常識よりも、人の気持ちをおもんばかることを優先するというわけか。
「しかしそれは、そのかたの念が強いということにほかならないでしょう。世のなかに対
して疑問を持つ気持ちはあるということですから。むしろ、世間のしがらみから、自身の
心を取り戻す余地はあると思います」
 危機のなかに潜んだ好機。弱音をはいている間は大丈夫だといわれているのは、そうい
う意味なのだと。決して、本来は大きいも小さいもないつらさを比べるためなどではない
のだと。
「それに、自殺を考えるということは、付け入るすきを与えてしまうようなものなんです
よ。そういった意味では阻止したいという思いはございます」
 彼は、そこまで述べて一息つくと、また息を吸って言う。
「人の心とか、人が生きてきた証とか。そういったものさえ踏みにじるような世の仕組み
は、まったくもって気に入りませんね」
 かく言う彼の表情は鋭さを増していた。それはまるで宣戦布告であるかのような。天に
さえ牙をむこうとするかのように。
 俺は、彼に持っていた印象を、良い意味でなのか、あるいは悪い意味でなのか、どちら
にしても改めることとなる。
 生の過程を自らで決定していこうとするとともに、死の過程をも自らで決定しようとす
る、そのような狂気を彼のなかに見た。
 武器を構えて戦地に向かおうとする、この彼の、身の上をたとえるならば、兵士ではな
く――――死神。数は多いが、戦力はまちまちで、勝ち残れる保障もないものではなく。
一体ではあるが、力をひとつに集束させており、必ず仕留めることができるもの。
 それどころか、もしも彼を本気で怒らせたならば、そのときは死どころか、消される覚
悟さえすることとなるかもしれない。
 最後に、俺は、そのような緊張感から逃れたかったためか、それとも先ほどからただ疑
問に思っていたためか、こんなことを聞いていた。
「夢とまでいかなくとも、意義のある生きかたというと、どういったものなんだろうか」
「やはり、好きなことに身を置いて、好きな人や好きな物をひたすらめでることでしょう
か」
 さまざまな者に持てている側の彼が、だれかやなにかを持てはやしたいとは。これもま
た意外な一面であった。
 そのときの俺は、すっかりと毒気を抜かれた状態となっていた。そして彼ももう、先ほ
どのように、少年のような笑みを浮かべていた。

 朝がやって来ると、俺はすぐにチェックアウトを済ませた。
 外は、夜とはうって変わって、静けさに包まれていた。俺は、そんな町なかを歩きなが
ら、昨晩に彼と語っていた事柄について思考する。
 なんだか不思議な人間だということは始終思っていたが、ただものでもなさそうであっ
た彼。
 彼は、たわいない会話をしていたなかでも、なにかを伝えたがっていたのではなかろう
か。
 いやならやめろということだろうか。いや、こう言うと違う気がする。いやいやながら
なしていることであったとしても、人の所業を否定するような人ではなさそうだった。
 ならば、逃げろということだろうか。ああ、この表現がいちばん近い気がする。しかし
ながら、それはまたずいぶんと現実とかけ離れている行いだと思った。

‐‐‐

 その夜、俺はまた夢を見た。前の続きであるかのような光景。次々と、ある場所へと向
かって行く群集。
 しかし、俺は、人々をすべて見送った後も、そこへ向かうことはしなかった。


                   〜 とあるホテルマンの憂鬱(後編) 終 〜
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