+. Page 100 | 雨降る夜の亡霊 .+
とある指揮者の語り 01 

 ――昔々、まだ世界がなかった頃。ひとりの魔術師がいました。
 それこそが原初の、本当の意味での神という観念なのです。

 魔術師は、ひとりでは退屈であると思い、自身の一部を崩し、自身が思いなかでもっと
も美しいものを創造しました。
 そして、それこそが原初の、本当の意味での楽園であったのです。
 それを見ていつくしむだけだという殊勝なことにはならず、愛を与える代わりに愛を与
え返せということになりました。
 喜びのときはもちろん、悲しみのときでさえも。健やかなるときも病めるときもとは、
このことなのです。
 たとえどれほど酷なことをしようとも、愛をとめることは許さないのだと。
 そうして傷をつけていったのです。この愛を受け取りやすいように。きみのためだと言
わんばかりに。これが最初にできた「間違い」というものです。
 与えることで愉悦に浸り、与えられることで愉楽に溺れること。ここから母性または女
性性の原理ができあがったのです。
 こうした楽園をあえて名で呼ぶのなら――――ティアマト。
 それに対をなすようにして生まれたものが煉獄、アビスなのです。

 魔術師は、それでは飽き足らず、今度はヒトを作り出し、楽園という箱庭のなかで飼い
はじめました。
 楽園としても、利益になるならばと、賛成の意を示しました。
 アビスを流しこむと、ティアマトに揺らぎが発生しました。それは波だ、涙なのです。
 こうしてイヴ、またの名をガイアという人類が誕生したのです。
 ティアマトは母なるもの、言い換えると女教皇となり、恐慌や凶行、あらゆるキョウコ
ウのはじまりです。

 当然、人類たちを見ていつくしむだけということにはならず、楽園が愛を与える代わり
に、楽園に愛を与え返せということになりました。
 人類たちから発せられる喜びなどは、遠まわりで魔術師のものとなるのです。
 しかし、それでも物足りなさを感じ、次は敢えてこの秩序を崩してみようと考えはじめ
たのです。
 めちゃくちゃにおかしてしまうほどの強行です。滅茶苦茶にお菓子……。ここからが宴
という名の、茶番のはじまりなのです。茶色の木の誕生でもあります。
 最初に出てくる品目は、その木から成った「知恵の実」です。赤く赤く、まるで鬼のよ
うでした。
 それこそが、人類たちの体の外側に吊るされた魂だったのです。
 それは食べてはいけないとされているもの、ほかのだれかの核をなすものであるとする
ならば、確かにそのとおりです。
 しかし、言いつけを守る保証などなく、むしろそれをねらったともいえます。
 そそのかすためのへびまで遣わせたのですから。
 それどころか、魔術師や楽園のほうから、愛の供給をとめられており、飢えさせられて
すらいたのですから。
 たとえ、それがほかのだれかの魂だと知っていたとしても、食べずにはいられなかった
でしょう。
 いいえ、知ってはいたのです。それがだれのものであるのかも。現世のように、言葉に
して発しなければ分からないなどということはありません。
 そう、ティアマトがこれ見よがしにかわいがっていたヒトのものです。
 これこそが、実質的な殺害であり、嫉妬という概念のはじまりだったのです。
 嫉妬という字がおんなへんであるのは、知恵の実を最初に食べたそのものこそが、イヴ
またはエヴァ、のちにガイアやゲーと呼ばれる女だったからです。
 それから、イブはほかの人類にも実を分け与えたのです。さらにその実を食べた彼こそ
が、のちにアダムと呼ばれるものです。
 知恵をつけたイヴとアダムは、自分たちが裸であることを恥ずかしく思い、その体を葉
でまといました。それが服という概念のはじまりです。
 すると、魔術師はいうのです。その身にまとったドレスで踊れよ奴隷と。
 そして、計画どおりに禁忌を破らせた魔術師は、彼らを楽園から追い出したのです。
 もっともっと別の、彼らが紡ぐ素晴らしい世界を見せてもらうために。
 うばすて山とは、ここからの発想なのでしょう。

 おとされた新たな地で、彼女は女帝となり、彼は皇帝となりました。

 新たな世界は、波から打ち上げられた貝のようでした。
 階層を表す巻貝は、楽園と煉獄を模した、天国と地獄の格差です。
 貝は海の字のカイであり、階層は海草から来ているものであって、回想でもあるのです。
 追い出された故郷に思いを馳せているのでしょう。
 また、そのことによる心の傷を自慰するために作り出したのでしょう。
 愛していた存在に捨てられたという事実をふりはらうようにして楽園への辞意を示すと、
次位の領域で示威しはじめたのです。
 新しい世界で花を咲かせようとする、はなさかじいさんのはじまりです。

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