+. Page 092 | 雨降る夜の亡霊 .+
 ミカゲは、荒れた屋敷の一角で料理をしていた。
 荒れた屋敷のことを荒屋敷……とは言わない。
 それに、荒れているとはいえ、やや年季の入った木造の家というだけであって、なかは
掃除が行き届いているため、雑然とした印象は受けない。

 アラヤシキといえば、阿頼耶識という観念がある。
 まず、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚を表す五感というものがあり、これを言い換える
と、順に眼識・耳識・鼻識・舌識・身識となる。そしてそこを超えたところに第六感があ
る。
 この第六感というのは、直感や霊感のことというのが通説であるが、実はこれこそが意
識のことであり、思考を司るもの。ここまでが顕在意識の領域である。
 もちろん、無意識のうちに受け取った情報が意識にのぼってくることはあり、その未知
の力を神秘的なものととらえてのことであるだろうが。
 そして、潜在意識の領域に末那識というものがあり、読みはマナシキである。精神力を
意味するマナというのはこのことだろう。または第七識ともいう。
 意識のさらに奥にある第八識、つまり阿頼耶識は、こうした意識の蔵であるとされてい
るのだ。

 しかし、そうであるならなおさら、八識だから屋敷というのはあながち間違いではない
ということになる。まさに人が住まうためのもの、蔵であるといえなくもないのだから。
 さらに、屋根裏に巣食うねずみときて、屋根の上のねこで根っこときたものだ。両者は
相容れないが、象徴としては同じ部類であるといえる。
 米を食うねずみ、精神を食らう根住み。そしてその腹を太らせたネズミを虎視眈々と狙
うネコ。
 米といえば八方を意味することもあり、字を分解すると八十八になることから米寿とし
て祝う風習がある。
 数字の八の字を傾けると、無限を意味する∞となる。もしかすると夢幻か、はたまた無
間か。
 ハチといえば、花を植えておくための鉢と、花の蜜を採集する蜂でもある。蜂はビーと
いうが、ベーと読めなくもない。ゲーとは近接しているが別のものといったところか。
 あっかんべーとあかんぼうは音が似ていて、赤子に対してべろべろばあというのはここ
から派生したのかもしれない。
 とりあえず、ベーが胎児だとしたら、ゲーがその母体であるということだ。陸が胎児な
ら海が羊水であり、世界が子宮であり鉢なのである。陸と海、土と水。死球、糸球、支給
……。
 やはり、ここでいう花というのは、そこに住まう生命たちのことであり、思い出という
蜜を蜂によって採集され、どこかに持ち去られていくのだ。すると当然、記憶など曖昧に
なり、ましてや前世のことなど覚えていないものだ。無意識のなかに埋もれているとして
も気がつきにくく、盗まれても気がつきにくいということか。
 それで、阿頼耶識とは個人の存在の根本であり、屋敷が立ち並んで、町や村、国を形成
した状態が集合的無意識ということになるのだろう。こうした共同体は、各個を守ったり
協力し合ったりできると思われるが、個人としての能力が目覚めにくく、足を引っ張り合
うという側面とてある。従順にさせておくことで、家畜として機能させる目的があるのだ
ろう。洗脳の手段にもなったわけだ。
 ついでにいえば、近所の住民たちがする世間話のなかで「あらやだ」やら「やーねー」
やらといった声をしばしば聞くのは、アラヤシキという音の干渉を受けてのことだと見え
る。
 そうした集合体がさらにたくさん寄り集まり、壮大なさまを形成したことから、八識と
掛けて八百万の神々といわれるようになったのだろうに、それが嘘八百といわれるように
なったのでは世話のない話だ。
 八百万の神々が嘘八百というのも、これはこれで分かりやすいことから、もしも八識と
いうものに目が向いたときのせきとめの役目にしているのだろう。集合的無意識としての
阿頼耶識は精神を雁字搦めにするおそれがあるゆえに危険だと思われるだろうが、個を形
成するものとしては情報の宝庫であるゆえに。
 それに、本来は、人と人の無意識が交わって影響を受け合うことに危険はなく、意思疎
通の手段であり、以心伝心のもとであるのだ。人と人との縁、つまりパズルの欠片が滅茶
苦茶にはめられていない限りだが。

 補足として、今度はベーとビーでベイビーなんていう話をしてみる。
 まず、カーナルの響きにも似た名の地に、乳と蜜の流れる場所がある。
 これは母乳のことであり、そのぬしはとりわけ地母神のことを指す。それを飲むさまは、
まるで蜜を採集する蜂のようでもあるというわけか。
 母乳とは血液からなっているものであり、涙もまた色素のない血である。母乳は涙に同
じといえなくもない。
 その涙はなにであるかというと、花の蜜でもあり、生きとし生けるものの思いや記憶と
いったものだろう。
 涙といえば泣かせて出させたものにほかならず、人の不幸は蜜の味ということになる。

 ここで、お年玉の話をひとつ。
 年のはじめに、子どもに金銭を与えるというものであるが、もとは供えた後の餅を渡す
という風習であった。米をついてできるあれだ。ちなみに玉は魂のことであるとされてい
て、年神の魂が餅に宿り、そうして分け与えてくれるといった考えから来ている。
 しかし、その金銭も、親が預かっておくという名目で取り上げることのほうが多いだろ
う。だいたいは銀行に預金されるものである。
 そして、精神の銀行というのがアカシックレコードというものである。
 そこには世界のあらゆるできごと、もちろん思いや記憶などが刻まれるとされていると
いう。
 それは虚空を意味するアカシャに被せたのだろう。虚空とは、なにもない空間を意味す
るが、逆にいえばなにものも存在しうるということだ。
 アカシックレコードというのは、蜜が集められた蜂の巣ということである。この場合の
蜜とは、金色でもあるカネのことであり、創世の神話でいうりんごのことなのだ。蜂蜜の
入ったりんごがあり、両者はしばしば一緒に用いられることもあるのは、そういった事情
もあるのだろう。
 鉄砲などで穴をあけることを「蜂の巣にする」というのは、本当に穴をあけられるよう
に乳母われている、もとい奪われていることを示唆しているから定着したのだろう。
 ちなみに、アカシャと音の似たアカシアの花からも蜂蜜が作られる。
 アカシャというのは、阿迦奢と書き、赤子のアカは阿迦であるのかもしれない。虚空と
いえば無垢であるといえなくもなく、赤子を連想させなくもない。

 阿頼耶識から意識のほうに伸びているという末那識についても掘り下げて考えてみる。
 末那識とは、阿頼耶識を対象として我執を起こすものとされている。そのせいか、染汚
意ともいわれている。
 しかし、これはある意味では当然であるといえる。阿頼耶識が木の幹だとすれば、末那
識は枝なのだ。顕在意識という葉や実が、生きるために細い部分を通じてしがみついてい
るというわけなのだから。
 つまり、葉や実が落ちるというのは死を意味するのだ。自身の潜在意識からも切り離さ
れてしまうということだ。集合的無意識というものに自分を取られたままであることなど、
やりきれないというものだろう。
 未練を立ち木流……ではなく、断ち切るなどとはよく言うが、本当は受け入れるもので
あるのだ。そうでなければ、いつまでも練りきれずに苦しむだけであるから。とにもかく
にも、立ち木に流したままでいいはずはない。
 それに、枝の幅が狭いということは、そこを通じて入ってくる情報も限定されるという
ことだ。引き寄せる程度では効率がよくはないだろうし、自ら潜っていくぐらいの気概は
必要だろう。
 ところで、首吊りだといえば物騒で嫌忌されやすいが、これこそが意識という現象を表
しているものであるため広く伝わったのだろう。
 こうして制限した理由に、人の子は精神が赤子のように幼いとして、力をつけさせて滅
茶苦茶に振りまわさせないためだとでも言い訳されそうであるが。
 そのために却って愚かにされ、集合的無意識という大きな赤子に振りまわされた結果が
今の世のなかであるとなれば、これこそ世話がないと言わざるを得ない。ああ、はいはい
と呆けるしかなくなるというものだ。
 こうして、悪意というウイルスは、人という細胞に取りついて増殖していったと。
 ちなみに、細菌のほうは自力で増殖でき、細胞の外のほうから分解して腐らせるといっ
たものである。
 細菌も借金も増えていくものという意味でも同じであるが、音としても似ている。今ま
で取られていたものを今度はこちらが利子付きで返してもらう番か。

 それにしても、この阿頼耶識という観念を説いた者は、蓮の花の上に座っていたという
ではないか。偉人と呼ばれている者が、泥のなかで懸命に咲いている花の上であぐらをか
くような真似をするだろうか。言い伝えられていくうちにねじ曲がったということは考え
られる。
 いや、むしろ、花の蜜か、それを採集する者という心象の光景として残ったのかもしれ
ない。
 まあ、偉人などというのは、洗脳が発覚したときの盾として立てられた可能性が高い。
 洗脳とは、心に残すために、大筋は本当のことを言って、そのなかへと嘘を投げこむと
いった手法なのだ。
 洗脳されるわけでもなく、捨て置くわけでもなく、吟味することこそが最大の意趣返し
であるだろう。
 とりあえず、八十八夜に茶摘みをして、甘茶をささげるなどといった義理はなかろう。

 そこまで思い至ると、ミカゲはようやく米をかまどのなかに入れて研ぎはじめるところ
であった。

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