+. Page 036 | とある彼の過去 .+
 運命というものは得てして唐突にやってくる。予兆はあったのかもしれないが、それは、
水のなかを泳いでいる生物が、水上の波紋による揺れに気づきにくいようなものだ。
 少年、レキセイは、今日もこの廃れた街中を行く。生傷だらけであろうと、走る、走る、
ひたすらに。
 冷たい風に吹かれ、雪に覆われていようとも構うことなく。いや、そんな意識をするこ
とさえ忘れたかのように。
 その様は、ぜんまい仕掛けの人形のようであるが、だれに命令されたわけでもない、自
発的ななりわいというべきもので。
 辺りを見まわすと、これもまた、操り人形をほうふつさせるしぐさでさまよい歩く人々。
 まともだといえる感性をしている者はいないのではないかと思わせる挙動。正気という
ものは初めから奪われていたかのように。
 レキセイが、いつもの方法で食料を調達し、以前よりも荒廃した住みかに戻ってくる。
 すると、ほかの子どもたち三人が、待ちわびたと言わんばかりに身を乗りだす。彼らは、
以前にも増してやつれたようであった。
 食事を終えると、語らうことが日課であるが、今回はそれもないまま、ぐったりとした
様子で、支えあうようにして、しばらく寄り合い、そのまま眠る。
 数日に一度の頻度で寝床を変える生活を送っているのでは、激しい消耗も免れない。
 この衰弱した彼らのかたわらで、レキセイは、見た目は静かであったが、激しい感情を
燃やしていた。割れた窓ガラス越しに外を、鋭い目つきでじっと眺めながら。
 外は、黒に近い色の空と、白銀の粉がふぶいている。積雪や寒さが増しても、それに呼
応するかのように、レキセイの内なる炎は、マグマのように煮えたぎってくる。この不条
理に繰りひろげられる大地の様相に抵抗を示すかのように。
「レキセイにいちゃん」
 そのとき聞こえてきた声。注意して聞いていないと、外からの轟音にかき消されそうな
ほどの。
 レキセイは、はっとしたように、声のしたほうを向く。
 声のぬしは、この場にいるなかで最も年下であるパトム。横たわったまま、まだ半分ほ
ど閉じられたまぶたをこすっている。彼の顔色は優れないが、どことなく生彩に満ちてい
た。
「起こしてしまったか」
「うん、おきたのー」
 あどけない様子で、どことなくかみ合っていない応答のパトム。レキセイのなかにある
赤々とほとばしる感情は、その合間にもしずまっていた。
「もうあさ?」
「ううん、まだ夜明け前みたいだ」
 パトムは、身体をのろのろと起こすやいなや、
「ぼく、おはなしがききたい」
 レキセイは、一瞬、きょとんとした様子で目をひらくと、
「カーナル神の話はほとんどしてしまったからなあ。ほかのものでもいい?」
「きかせてきかせて」
 ちょこまかと動くような口調のパトムに、痛いほどのくすぐったさを覚えるレキセイ。
「でも、これが終わったらまた寝ておいて。そうでないと、体力が持たなくなるから」
「うん、わかった」
 他愛もない交換条件が成立すると、レキセイは、おとぎ話のてん末を語りはじめた。子
守唄のように、静かに、柔らかく。
 パトムは、再び寝入るまでの始終幸せそうな面持ちであった。これならば、世の闇を甘
受することも苦にならないと言わんばかりに。

 それから二日後のこと。
 朝になって目が覚め、レキセイが、いつものように出掛けようとしたとき。
 ほかの子どもたちはまだ眠っているようであるが、なかでもパトムの呼吸が浅い。衰弱
しきっているのだろうか。それならば、早く食料を調達して戻ってこなければ。そう考え
たレキセイは、即座に外へと飛びだしていった。
 数十分後、寝床にレキセイが戻ってきた頃。
「お、にいちゃんおかえり!」
「おかえりなさい」
 戻ってきたレキセイの姿に気がついたアレスが言葉を向けると、続いてエリーも同じよ
うに応じる。パトムはまだ眠っているようだ。
「うん、ただいま」
 レキセイのほうも返答すると、パトムのほうに目をやり、
「パトム? まだ寝てる? 朝食、持って来たよ」
 応答はない。不審に思ったレキセイは、パトムのほうへ向かい、
「パトム、起きてくれ」
 と、寝たままのパトムの身体を揺さぶり、
「パ――――」
 そして、硬直した。
 パトムの身体は冷たい。鼓動も聞こえない。息づかいさえも。
 レキセイには、それが意味するところははっきりと分からなかった。ただ、パトムはも
うしゃべることも動くこともない。そのことはすぐに解した。
 レキセイは、しばらくの間、ただ涙を流していた。彼自身にはその理由が分からないま
まに。
 そして、パトムは――姿を消した。
 いつだって幸せそうにしていた、いちばん小柄で年下のパトム。そんな残影が、レキセ
イの脳裏に焼きついていた。

 パトムがいなくなってからも、アレスとエリーの様子に変わったところはなかった。い
つものように、寒さと空腹に耐え忍んでいる。
 レキセイも、悲しむ間もなく、食料を調達し続ける日々を余儀なくされている。
 ある日、大人になったらなにをしたいかという話になっていたときのこと。
「およめさんになって、かぞくとくらしたいな」
 そう言ったのはエリーであった。
「あったかいいえのなかで、あったかいごはんをつくってたべるの」
 そして、そんなよくある光景を、遠い夢を見るように語る。
 レキセイは、ただ静かに聴いていた。それしかすべがないのだと言わんばかりに。
 エリーは、ひとしきり語り終えると、のどをひゅうひゅうと鳴らしながら咳きこんだ。
「大丈夫か?」
 レキセイが、エリーの背をさすると、
「……熱がある。もう眠ったほうがいい」
 そう告げられると、エリーは、なにかを言うでもなく、ひとつうなずくと、レキセイに
したがい、徐々に眠りへと落ちていった。
 レキセイは、苦しそうに寝息を立てているエリーの額をなでながら、ただただ彼女を見
つめていた。
 外は、相変わらず、陽の光が射さないほどに暗く、白銀の粉が容赦なくふぶいている。
 やがて、レキセイとアレスも、エリーに寄り添うようにして眠りに入っていった。
 次の日、レキセイが、いつものように出掛け、いつものように食料を調達して戻ってき
たとき。
「エリー、食べれそう?」
 レキセイにそう尋ねられると、どうにか身体を起こしているといった様子のエリーが、
力なくほほ笑みながらうなずいた。
 食事を終え、しばらくすると、
「わたしね、パパとママのことがすきだったの」
 身体を横たえたまま、弱々しく口をひらいてそう言ったのはエリーである。
「……ひどい扱いをされたのに?」
 そして、遠慮がちに尋ねるレキセイ。
「あれはきっとほんとうのパパとママじゃなくてね、おなじすがたをしたほんものがいた
んだよ」
 消え入りそうに、それでいて屈託のない様子で答えるエリー。
「え……?」
 レキセイは、その意味の理解が追いつかなかったためか、そう返すことが精一杯である
ようだ。
 そのとき、エリーは、体調が優れないまましゃべりたてたせいか、ひどく咳きこんだ。
咳が止まったかと思いきや、続けざまに、
「だってね、パパはいつだってまもってくれて、ママはやさしくて……」
 と、そこまで話すと、先ほどよりもひどく咳きこむ。
「うん、分かった。もう、しゃべらなくても大丈夫だから」
「でもね……」
 エリーは、レキセイの緩やかな制止が耳に入っているのか否か、なおも言葉を紡ごうと
している。
「レキセイおにいちゃんのことはもっとだいすき……」
 力を振り絞るようにしてそれだけを告げると、エリーは、すっと引くようにして息をつ
いて目を閉じた。
 寝てしまったのだろうか。レキセイは、そう思って、エリーの身体を冷やさないように
と毛布をかける。
 そのとき、エリーの頬に当たったレキセイの手に、異様な感触が走った。彼女の身体に
は血がかよっていないような冷たさがあった。それに、よく見ると、顔色は優れないを通
り越して青ざめている。
 彼女から語られる言葉の続きは、それきり永遠に失われた。もう、呼吸の動作すらしな
い。
 レキセイは、恐怖とも怒りともとれるような、蒼白にいろどられた身体を、しばらくふ
るわせていた。
 こうして、エリーも姿を消した。
 レキセイの心のなかでは、彼女の甘く引っかくような言葉たちが、鐘のようにいつまで
も響いていた。

 あの日からあまり時が経っていないが、厄介な事態は次々とやってくる。
 いつものように暗くて寒い外はもちろん、治安の穏やかでないこの地では、人々の怒声
もたびたび届く。
 建ち並ぶ廃墟の一角にて、
「ここにいるのもそろそろ限界みたいだ。新しい住みかを探さなければ」
 と、言ったのはレキセイである。
 ただひとり、レキセイのかたわらにいる少年アレス。
「だったらさ、つぎにいくのは、たのしいところがいいな」
 彼にそう言われたレキセイは目を丸くする。
「すきなだけたべて、すきなときにねて、ずっとあそんでいてもおこられないところ」
 衰え弱った身体で、けれども希望に満ちた瞳で言うアレス。
 レキセイは、少し考えた後、
「……分かった。それじゃ、次はそこに行こう」
 その言葉に、アレスは、表情をほころばせる。
 そして、レキセイに続くかたちで、アレスもこの場を後にした。
 混沌とした様相を呈している外の世界では、得てして、体温が奪われ、精神の状態まで
めいらせてしまう。そんななかで、身を潜めながらしなやかに動くことは至難のわざであ
る。それでも、彼らは、安らぎの生を獲得するために駆けていく。
 レキセイがしばらく歩いた先で、彼の後ろから、雪の上になにかが落ちたような鈍い音
がした。
「アレス?」
 レキセイが振り向いた先では、彼に続いて歩いていたアレスが倒れていた。
「立てるか?」
 レキセイはかがみこみ、アレスに向けて手を差し出すと、
「う……、にい……ちゃん」
 言葉をしぼり出すアレスの、辛うじて上げられた顔はひどく青ざめていた。雪の上でう
つ伏せになったままでは命にかかわる。
 レキセイは、反射的に、アレスの手を引いて立たせる。
「歩けそう?」
 アレスの脚はがくがくとしており、歩けるような状態ではなさそうだ。
「うん、まだあるく。たのしいところ、いくから」
 こうして、彼らは、この極寒の地を再び歩きだす。
 雪を含んだ強風は、人の容態に構うことなく吹きつける。それに加え、薄暗い空が、身
体を奮わせる手段である気力までも容赦なく失わせる。
 そして、再び、レキセイの後ろから、なにかがくずれ落ちたような鈍い音がする。
 レキセイが振り向いた先では、アレスが力つきて倒れており、
「……にいちゃん、もう、ねむい」
「こんなところで寝たらだめだ! 背負ってくから捕まって」
 レキセイがどうにかアレスの身体を起こさせ、背負おうとするものの、捕まる体力まで
もなくしたアレスは、地面に吸い寄せられるだけであった。
 レキセイは、アレスの肩を持ち上げるようにして支え、
「目を……あけてくれ。楽しいことがある場所へ連れて行くから」
「う……ん。つぎにおきたときは、そこだったらいいな」
 アレスは、そう言い残して、落ちていくようにしてまぶたを閉じた。
「アレス……アレス?」
 レキセイが名を呼ぼうとも、アレスが起きる気配はない。
 アレスの身体は、温度はわずかの間に吹雪に奪われ、みるみる青白く変色し、硬直も早
い。
 アレスは眠ったまま二度と起きないのだとさとったレキセイは、蒼白に染まった顔をう
つむかせたまま、その場を動くことができずにいる。
 辺りはなおもふぶいており、多くの老朽しきった建物がきしめきながら揺れているが、
レキセイの世界は永遠に止まってしまったかのようであった。
 やがて、この付近にも、人々の、悲鳴にも似た怒声が聞こえてきた。
 レキセイは、その声で、身をこわばらせる。
 ここにいては、大人たちに見つかってしまう。そう奮い立たせたレキセイは、アレスの
遺体を抱きかかえて走りだしていった。
 レキセイがたどり着いた先は、海のひらけたところである。薄暗い空に相まって、海の
色もくすんでおり、風にさらされた水面はうなるような音をたて、波は荒々しい。すべて
をのみこみ、無に帰そうとせんばかりに。
 しかし、だれの目にもさらされず安らかに眠らせられる場所といえば、レキセイにはこ
こしか思いつかなかった。
 レキセイは、抱えていたアレスの遺体を、海のなかへと流しこむ。できるだけ遠くに逃
がさなければならない。そして、この地から解放させなければならない。ただそれだけの
ことを思いめぐらせながら。海は瞬く間にアレスをさらっていった。
 以前も、レキセイは、パトムとエリーの遺体も海のなかへと流しこんでいた。今と同じ
ことを祈りながら。
 そのときは、地平線からからかすかにもれる陽の光が、茫然自失であったレキセイにと
ってゆいいつの慰めであった。
 しかし、今は、ただ暗く、空と海の境界も溶けてなくなってしまっているような状態で
ある。
 レキセイは、足元を襲う海の水や、転倒させようとせんばかりの風のなかで、くいしば
るようにして、しばらく立ちつくしていた。
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