+. Page 035 | とある彼の過去 .+
 このセピュラント大陸の北端には、ノーゼンヴァリスという国がある。
 例に漏れず、寒さが厳しく、貧しさをしいられている人々は存在する。日が昇っている
時刻であっても、空は、雲に閉ざされているため、薄暗さがひろがる。街路にがらくたが
散らばっていることもざらだ。
 時をさかのぼること数年、なかでも特に程度の甚だしい、継ぎはぎだらけの建物が建ち
並んでいる地区があった。強風にあおられ、今にも崩れ落ちてゆきそうな。応急処置は施
してあるが、間に合わせに使った、その場しのぎのもので、息をつく暇もなく修繕する羽
目になっているのだろう。
 通りには一陣の風。いや、だれかが走っている。それも、白銀色に瞬く閃光のように。
 そのぬしは、銀髪の、十一歳ほどの少年。服装は、ところどころがすすけていたりほつ
れていたりしているもの。両手でだいじそうに抱えているそれは、パンなどの、その場で
すぐに食べることができるものである。
 少年は、しばらく走ると、裏道のほうへとそれる。壁を背にして足をとめたかと思いき
や、辺りに目配せして、人がいないことを確認した。そんな彼の表情は、後ろめたさは一
切なく、かたくななまでの信念のあらわれが強い。
 少年が帰り着いたのは、これもやはり今にも崩れ落ちそうな、建物というにもおざなり
な廃墟。彼は、扉をあけると、
「ただいま。みんな、いる?」
 その先にいるだれかにだけ聞こえるような声で尋ねる。
 その場は、外からの風が威嚇するような低い音をたてており、明かりは一台のランタン
のなかで揺らめく炎のみである。辛うじて確認できるのは、十にも満たない三人の子ども
の姿。彼らは、それぞれとの境界が溶けているかのようにひとかたまりに集まっており、
ひとつの使い古された毛布をかぶって寒さを耐え忍んでいる。
 彼らのうちひとりが、そろそろと顔を上げると、
「レキセイ……にいちゃん……」
 今しがた戻ってきた少年の名を呼ぶ。
「アレス、エリー、パトム」
 レキセイと呼ばれた少年は、ひとりひとりを確認するようにしてそれぞれの名を呼び返
す。
 レキセイに次いで年上であるのは、アレスと呼ばれた少年。続いてエリーという少女。
いちばん小柄で年下であるのがパトムだ。とはいえ、ほぼ同じ年ごろである。
「うん、おかえり!」
「よかった、ちゃんとかえってきてくれたのね」
「ぼく、にいちゃんがいないあいだ、どうしようかと……」
 快活な雰囲気である少年アレス、いかにも女の子といった雰囲気のエリー、繊細な男の
子パトムといった面々だ。
 レキセイは、彼らの目の前にしゃがみこむと、持ってきた食料を、人数分に、慎重なま
でに同じ量に分ける。彼らは、よほど空腹なのか、それを見て目を輝かせている。
 そして、なにか言葉を発せられる前に、分けた食料を、すかさずそれぞれに渡すレキセ
イ。
 全員が食べ終えた後、レキセイは、壊れかけた暖炉のあるほうへと足を進める。懐にし
まっていたマッチ箱からそれを取り出し、発火させると、その暖炉へ投げ入れた。
 アレス、エリー、パトムも、炎のきらめきにさそわれるようにしてやってくる。
 この厳しい気候の北国において、食料に次いで火も貴重なものである。
 それからしばらくの間、四人は寄り添い、他愛もないことを語らっていた。ささやかな
がらの宴会である。
 しかし、ノーゼンヴァリスの夜の訪れは早い。星なんていう興を添えたものもない。楽
しいひとときはすぐに過ぎ去り、あとは寒さに備えて眠るのみであった。
「もうすこし、おはなししてたいな」
「あ、ぼくも。カーナルさまのおはなしももっとききたい」
 おずおずとした様子で頼むエリーとパトム。
「そうしたいところだけど、もう寝たほうがいい。起きてたらまたおなかが空くし、だん
ろの火ももうじき消えそうだから」
 レキセイは、いつくしみの込められた、静かな調子で言う。
「まあ、またあしたにすればいいだろ」
 すると、アレイは、楽観を込めて、全員に提案した。
「……うん、それじゃあ、またあした」
「うん、また明日だ」
 そして、エリーが念を押すように言うと、レキセイも確かめるようにつぶやき返した。
 レキセイに手向かおうとする者はいなく、全員が就寝の体勢に入る。ひとかたまりに集
まり、互いの身体を支えあうようにして眠るのが習慣である。
 目を閉じた後も、レキセイは、しばらく回想にふけっていた。

 事の初めは、じめじめとしていて暗い、それでいて凍てつくような風の通る、地下に敷
かれている水路のふちであった。レキセイは、目を覚ますと、その場に横たわっていたこ
とに気が付く。当時の彼の年齢は十にも満たない。
 両親と過ごした日々のことは確かに記憶にあった。厳しい寒さが続いたが、それにも引
けをとらず暖かな雰囲気に包まれた家庭。愛情のこもった食事を作ってくれたことや、カ
ーナル神に関するおとぎ話を、寝る前に読み聞かせてくれたことなどなど。
 だというのに、なぜ、いつの間にここにいたのだろう。それは、彼自身にも分かる由が
なかった。
 それから、思考する暇を与えることもなく、どこからかうなるような声が聞こえてくる。
この場にはレキセイ以外の気配は感じられない。どうやらこの閉ざされた通り道で吹いて
いる風の音であるようだ。そのうえ、びちゃびちゃと、気味がいいとはいえない水の音が
していた。
 レキセイは、はっとして辺りを見まわす。出口と思しき箇所はどこにもない。
 しかし――いつまでもここにいるわけにはいかない、どこかで突破を果たさなければ。
 危険を明確に感知したわけでもなく、取り立てた理由があるわけでもないのだろう。そ
れでも、彼の心の奥底はそう訴えていた。
 彼は、ただ歩く。ひたすら歩く。
 しばらくすると、頭上のほうから、一条の光が射しこんでいる箇所を見つける。それは、
光というには輝きを感じられるほどのものではないが、この場からするとまばゆいものの
ように見える。
 レキセイは、光の射している位置まで来ると、再び辺りを見まわし、壁を手探りはじめ
た。
 やがて、段ばしごのようなものが、レキセイの手に触れる。
 ここに手と足を掛けて上がり、光の漏れている口を押しひろげていけばいいのだろう。
彼は、だれに教わるでもなく、そう瞬時に理解した。
 レキセイが地下から顔を出した先にひろがっていたのは、灰色の空模様であり、廃墟が
建ち並び、通りにがらくたがまばらに落ちている景色。それでも、暗黒の世界から抜け出
た後のそこは、まるで天国のようでもあった。そのためか、彼も、取り乱すどころか、ど
ことなく晴れやかな様子で地上へとのぼる。
 しかし、それによって新たな不安がレキセイを襲う。これからどうするべきなのかと―
―。
 それからというもの、レキセイは、生活していくため、もとい命をつなぎとめるため、
寝泊りする場所を探し、必要最低限の衣類を入手し、食料の調達に奔走することとなった。
「このさい、しんでしまってもいいんだけどな……」
 レキセイの、だれに向けてつぶやいたでもない声は、虚空へと吸いこまれるようにして
消えていく。
 そして、なにかを追いはらうように、首を横に振る。生きていたいわけではない、しか
し生き延びなければならないという、根拠のない心の奥底の訴えに応じることを選ぶ。そ
のためならば、危険を顧みず、手段を選ばないことになろうとも。
 必要な物は頼むだけでは手に入らない、貨幣がなければ。それを稼ぐ手段もないと解す
るやいなや、レキセイは、どうにか手に入れる、それも見つからないで済むよう講じる。
 住宅に侵入する手段としては、まず最初に思いついたのは窓からというものだ。針金ま
たはそれに類似したもので鍵をあけることを身につければ、住人の留守中をねらって玄関
から入ることも得きる。ねらいやすい時刻も大抵は決まっているが、それに乗じて、同じ
目的でやってきた者と鉢合わせする確率も高い。あらゆる意味で、人の気配を察知する鋭
敏さは欠かせない。
 それは、細心の注意を払っていたとしても、幾度か続ければ必ず見つかるものだ。レキ
セイとて例外ではなく、捕らえられそうになり、逃げれば追いかけられることとなる。
 しかし、レキセイはだれよりも速かった。その場に一億人いたとしても、彼に敵う者は
いないと思わせるほどに。
 こうして、目標とする家を変えつつ、危ない橋を次から次へと渡り歩いている間にも、
とある穴場の存在に気がつく。地下に敷かれている水路のある道だ。ここからならば、何
件かの屋敷に通じており、侵入も果たしやすい。このような発想をする者は少なく、気づ
くところまできたとしても、この極寒の地の、暗い場所を渡ろうとする者はほとんどいな
いだろう。よって、だれかと鉢合わせする気がねは無用だ。レキセイは、常に、辺りにだ
れもいないことを確認すると、そこを中心に活動するようになっていった。
 どこかの屋敷への侵入を果たし、札束から必要な分だけ抜き取ること。それは、レキセ
イにとって、とらわれの身となっているものを、その場から引きはがす感覚でしかない。
 そこまできて、レキセイは、自身が踏んだ箇所に泥が付着したことに気がつくと、自身
が着ている服のすそで、汚れを残さずふき取る。このままにしておくと不都合なことがあ
ると、直感的に判断したようだ。
 再び外に出て、ところからところを行き渡っていると、様々な家庭の様子が目に映る。
親と子が生活を営んでいる、どこにでもある光景。それは、日を追うごとに、異様な相貌
をあらわにしていく。やせ細っていく子ども。それだけにとどまらず、身体じゅうに刻ま
れた傷跡。目だった外傷のない子どもであっても、ときには、怪しげな格好をした者たち
が、品定めするかのような目で見ていくこともあった。
 レキセイは、なにを意味するかまでは理解していなかったが危険を察知した。すると、
彼は、衝動的に、大人たちの目を盗んでは子どもを次々と連れ出していった。
 それからは、彼らとレキセイの、逃亡をかねた共同の生活が始まった。
 かの大人たちはというと、子どもを連れ去られたと知るやいなや、悲痛な叫び声をあげ
ていたそうだ。それは、子に情愛を向ける親たちのものとなんら変わりはないものであっ
た。

 まだ早朝といえる時刻、レキセイは、目を覚ますやいなや、所持金の残りの確認をする。
人数分の食料を購入できるほどの金額はすでにない。そうなると、こっそりと調達するほ
かない。彼は、足の裏に付着した汚れをふき取るための布を手にすると、傍で眠っている
ほかの子どもたちを起こさぬよう、注意を払いながら外へ出る。
 レキセイが、まず始めにやってきた場所は、地下にある水路へと続く穴のあるところだ。
いつものように、辺りに人の気配がしないことを確認すると、その胎内へと素早く身を躍
らせた。
 この閉ざされた通り道のなかは、相変わらずの不気味な音が交じりあい、冷たさが体温
を奪い、身体まで動かせなくなりそうである。
 しかし、レキセイからすると、気にしている場合ではないのか、そこまで意識がいって
いないのか、ただ生きるためにひたすら走っているだけであった。彼がおそれていること
といえば、ほかの者がこのなかにはいないという確信があるにもかかわらず、常にだれか
に見られているのだという、根拠のない観念のみ。
 目的どおりに貨幣を手に入れ、食料を購入すると、レキセイは、住みかへと帰り着く。
 そして、ほかの子どもたちが、眠りから次々と目を覚まし、
「あれえ、レキセイにいちゃん、どこかにいってたの?」
「……うん、朝ごはんを買いにいってたんだ」
「わあ、ごはん? たべるたべる」
 食べるものがあると知るやいなや、レキセイの周りに集まりだす。
 そして、いつものように、食事を終えると、寄り添い、なんの変哲もないことを語らう。
 彼らやほかの住民たちは、そんな当たり前の日々を繰り返していた。この極寒の大地が
もたらす、まやかしの安寧が崩れ去るその日までは。
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