+. Page 031 | クロヴィネア編 .+
 夕暮れ時の、灰色の空。その下には、大ざっぱに組みたてられた、木造の建物がまばら
に並んでいる。それは、この冷ややかさを、さらにかきたてるふうである。建物と建物の
合間に敷かれている田畑の作物から漂ってくる清涼なにおいも、今は、身体を凍えさせる
だけのようであった。
 農地に設けられている建物の、なかでもひときわ大きい家屋の裏側。そこには、まだ年
ごろともいえる男女の姿があった。空の薄暗さと同化しそうに見えて、光沢を放つ銀の髪
の彼。そして、この空にはおよそ不似合いな、薄い紅色の髪の彼女。恋人同士のおうせと
いった甘さの漂う雰囲気ではなく、むしろ張りつめているふうに見うけられる。彼女に至
っては、手に槍を携えている。
「はあ、本当に来るのかなあ……」
 彼女、リーナが先に、待ちくたびれた様子で口をひらく。
「……うん。食料を取りにくるとなると、来ないほうが不思議だ」
 彼、レキセイは、気が重そうな様子で応じる。
「あーあ、待ち構えてるだけなのも退屈だなあ」
 リーナは、レキセイのそんな懸念に気をとめたふうでもなく、ただ無邪気に、手にして
いる槍の先で、土の上になにかを描きながら言った。

 空がますます暗くなってきた頃、レキセイが上を見上げた瞬間、彼の顔面になにかが滴
り落ちてきた。
「雨だ」
 ぽつりと、そう漏らすレキセイ。
 雨は、徐々に降るでもなく、早急に加速していった。
「わあ、これじゃあ、畑荒らしを退治するまえに、リーナたちがかぜひいちゃうわ。ねえ、
レキセイ、家屋のなかで待たせてもらわない?」
 リーナがそう持ちかけた瞬間、
「しっ」
 口もとに人差し指を当てて制するレキセイ。
「なにか聞こえる」
 レキセイは、リーナにだけ聞こえるほどの声量で告げる。
 そのとき、農地に入るかは入らないかといった場所から、なにかが動いているような音
がした。雨音に紛れていなくてなおかつその近くにいたとしても、耳をよく澄ませていな
いと聞きのがしていそうな程度のもの。
 そして、それは、なにかを確認し終えたようで、すばやい足どりで、畑のほうへと向か
っていった。目的の場所へ着くと、周りを囲っているさくなど気にとめる様子もなく、作
物を次々ともぎ取っていく。その者の姿形は、成人した男性よりやや高い背丈であり、体
格はがっちりとしている。ゴリラに近い生態の獣。
「こらあ、待ちなさーい」
 その獣の背後から聞こえてきた、雨音の激しさにも紛わないほどの、かん高い声。
 獣は、びくりと身体を震わせ、その反動で、手にしていた作物を地面にばらまいてしま
った。それをひろうまもなく、なにかが突き刺さる鈍い音とともに、自身の背に痛みを感
じ、逃げるように前進した。
 獣がぱっと振り返った先には、
「一匹で乗りこんでくるなんていい度胸じゃない」
 槍を手に持ち、いかめしそうに立っている、薄い紅色をした髪の少女。少女、リーナは、
どことなく、興味深い研究対象を見つけたような目である。彼女のやや後ろには、空の暗
さのなかでも存在を埋没させないほどの輝きを放つ銀髪の彼、レキセイの姿。
 そのうえ、激しい雨が降っており、足場だけにとどまらず視界も悪い。獣にとっては不
利な状況である。
「――ガアッ!」
 しかし、獣は、逃げようとしないどころか、リーナのほうへと襲いかかろうとする。リ
ーナは、あわてた様子もなく、槍を構える体勢をとる。そして、獣は、瞬時に移動してき
たレキセイによって、攻撃を阻まれるかたちとなった。
 レキセイは、ここから立ち去れと言わんばかりに、盾代わりにしていた腕で、獣をつき
とばした。それでもなお、獣のほうも、彼らを退けようとせんばかりに再び攻撃をしかけ
てくる。
 その間、リーナは、すかさず槍を獣のほうへと突き出す。その刃が、獣の腕をこすれた。
「ガアアア」
 悲痛な叫びとともに表情も苦痛にゆがんでいるが、傷んだそこをかばうそぶりもなく、
なおも攻撃をやめようとはしない獣。
 空は先ほどよりやや黒みをおび、雨はより激しさを増していく。こころなしか、吹く風
も勢いを増してきたようだ。
 彼らの死闘は続く。獣を、つきとばすようにして退けるレキセイに、槍で牽制している
リーナ。なにかを意地でもやりとげようとして、ふたりに向かってひたすら特攻する獣。
実際にはそれほど時間は経っていないが、長い間そうしていたかのようである。
 レキセイは、速度こそ衰えていないが、身体に力が入らなくなってきているようだ。薄
暗い屋外で見ても、彼の血色が紫を帯びていることがわかる。雨風にさらされた生身は、
体温を徐々に奪われ、あらゆる感覚までも麻痺してくる。呼吸は、幸いにも安定している
ようである。リーナのほうも、表向きは平然としているが、やはり血色は良くない。獣と
て、それは同じであるはずだ。あとは体力の勝負であった。
 早くこの場からひいてくれ。そこをのけ。両者の間での、願掛けのような交戦。そこに
敵意は存在しない。
 やがて、獣は、力がつきたようで、地面につっぷすかたちとなる。目だけは前をにらん
だままで。レキセイも、それを確認すると力つきたようで、同時に倒れこんだ。リーナの
ほうは、まだ立っていられるようで、獣に向かって、さらに攻撃を仕掛けようとする。
 しかし、槍を構えようとしたところで、後ろから引かれるようにして動きをとめるリー
ナ。彼女が振り向いて目をやった先には、レキセイの手が、彼女の服のすそをしっかりと
握っていた。
 雨や風の音は相変わらず響いているが、彼らのいる辺りにはうれいを帯びた静寂が訪れ
ていた。それから間もなく、
「おい! やったのか」
 今まで家屋に閉じこもって様子を見ていたらしい農夫たちが、扉をひらける音をさせて
外に出てくると、次々とレキセイたちのほうへやってくる。
「よし、これでまた心おきなく作業に励めるぞ」
「ざまあみろってんだ」
 そして、わいわいと重なりあう、農夫たちの声。
 それもつかの間のこと。農夫たちが、倒れてなおも前方をにらみつけている獣の姿に気
が付くと、
「うわあ! こいつ、まだ生きてる」
 彼らの歓喜の声は、次第にどよめきへと変わっていった。そして――、
「おい、早くこいつにとどめを刺してくれ」
 ただ純粋な望みでそうたくする。武器を手にしてたたずんでいる少女、リーナに向けて。
そのすぐ横で力がつきている彼、レキセイの姿に気づいた様子もなく。
 まだかまだかと騒ぐ子どもたちを見かねたかのように、リーナが、槍を構えなおし、獣
のほうへ向けようとしたとき、
「待……って、くれ。だめ……だ」
 消え入りそうでいて、よく響きわたるレキセイの声。
「なに言ってんだ。こいつを生かしたままにしておいたら、またやられちまう」
 農夫たちの声は、激流のように激しさを増していく。
「まあ、リーナたちだってここで任務放棄したらむだぼねになっちゃうし、あななたちど
ころか国全体が困ることになるみたいだし、断る理由なんてないけどね」
 やれやれと言わんばかりの表情をくずすことなく言うリーナ。彼女は、再び槍を構える。
 レキセイは、ぴくりと身体を動かすやいなや、
「リーナ、その槍を貸してくれ」
 そう促しながら、身体に付いた土をはらう様子もなく起きあがる。
「え?」
 予想だにしていなかったたのみに、あっけにとられた様子のリーナ。
「リーナが退治するというなら……俺がやる」
 かたくななまでの表情で、リーナのほうへ手を差し出しながら告げるレキセイ。
 リーナは、やや戸惑いはしたものの、言われたとおりに、レキセイへ槍を渡した。
 すると、レキセイは、槍の使い方が全く分からないためかたどたどしい手つきで、獣に
向けて構える。
 獣も、自身の身体の傷をかばう様子もなく、表情は険しいままで、のろのろと立ちあが
る。
 そんな合間にも、雨や風は容赦なく激しさを増している。
 農夫たちといえば、その場を動くそぶりはない。いや、動けないようで、彼らのやりと
りを、息をのむようにして見入っている。
 咆哮のような雨風の音を合図とするかのように、両者は同時に、互いの懐へ飛びこんで
いく。
 レキセイは、手にしている槍を、獣のほうへたよりなく突き出す。
「ガア、アアアア」
 獣のほうは、どうにかよけようとしたものの、レキセイが繰り出しためちゃくちゃな攻
撃によって、横腹のあたりに刃がこすれ、余計に傷を負うかたちとなった。
 レキセイの表情は、暗がりでの遠目からでもわかるほどに青ざめている。
 獣はというと、レキセイのそんな心中を知るよしもなく、即座に再び襲い掛かろうとす
る。
 レキセイのほうも、状況の把握に追いついていない様子ながらも、獣に応じるように、
体勢を取りなおした。
 そして、条件反射で身体が動いたかのように、獣へ向けてさらに槍を突き出す。
「ガッ、ガ、ガア……」
 今度は脚に刃がこすれ、地面に両手を着く獣。
 そのとき、鼓膜を裂くような音。暗闇であっても、あたりの様子を映し出すような雷。
 獣は、はじかれたように、稲光のしたほうへと向かっていった。
 レキセイは、獣を追いかけようとはしない。ぼうぜん自失としており、それどころでは
ない状態である。
 リーナは、そんなレキセイの様子を、おそるおそるうかがっている。
 農夫たちも、先ほどまで獣を退治してもらうことに執念を燃やしていた様子からうって
変わり、レキセイのほうに目をやった状態で、ただぼうぜんと立ちつくしている。
 雨と風は先ほどよりは静まったようであるが、空はさらに暗さを増していた。
 レキセイは、獣が走っていったほうをまっすぐに向いたままであった。
 レキセイの髪は雨に濡れ、目元を隠している状態であるため、彼の表情をうかがい知る
ことはできない。銀色であるその髪の光沢も今はさえないが、空の暗がりに同化したとい
うわけでもなく、その輪郭はどうにか保たれている。
「……お、おい……?」
 農夫のうちひとりが、どうにか声を発したといった様子で、レキセイに呼び掛けた。
「…………せ、ん……」
 不意に、震えているような声を発するレキセイ。
「すみません、にがして……しまいました……」
 そして、やっとのことで紡いだ言葉。
「……い、いや、それは構わないが」
「あ、ああ、そうだな」
 農夫たちは、レキセイへの言葉をどうにか見つけたふうに応じた。彼らも落ち着きをな
くしているためか、ほかに言葉が出てこないようだ。
「そう……ですか。それ……では、これからも……農作業のほう、よろしくお願いします。
あなたたちがそうしてくれてるおかげで生活していけるのですから……」
 かくいうレキセイの声は相変わらず震えているふうであるが、どことなくたおやかでさ
えあった。
 農夫たちは、互いの顔を見合わせている。言葉は完全に失ったようだ。
 生きとし生けるものを覆うようにひろがっているこの空の憂いは消えることがなかった。
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