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 外が白みはじめた頃、はっと気が付いたように目が覚める。もう何度も繰り返している
ことだ。
 あの夢も久しぶりに見たな。いや、徐々に間隔が狭くなっている気がする。
 最初に見たときからは一年ほど間が開いていたと思ったのだけれど、それからは数ヶ月、
数週間と縮まっていっている感じがするのだ。
 ただ変わらないのは、いつ見ても慣れることはなく、起きた後は悲しくてたまらないと
いう気持ちが残る事実。

 休暇だというのに、すっきりしないまま目が覚める。
 気晴らしがてらにカーテンを開けても日の光はそれほど差しては来なくて、夜が明けた
ばかりであることと立地の拙さを差し引いても暗いと思った。
 そのまま目線を下にやると、彼にもらったばかりの、瞬く夜空を象った羅針盤。
 やはり昨日のことは夢ではなかったのだなと再認識する。どうにもあちらの方が、現実
としての実感がないような、不思議な出来事だったのだ。

 空腹を満たさないことには思考がどんどんおかしな方向へ行ってしまう。ひとまず朝食
の準備に取り掛かろう。
 自分のために好きなように味付けたり盛り付けたりすることも案外と楽しいものなのだ。
 食べてくれる人がいるとなおいいことには変わりないのだけれど。

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 朝食の後、暇ができたわたしは本棚に目を向ける。
 本棚といっても、十にも満たない数の本しか立てかけていない。わたし自身、それほど
読書には熱心ではなく、必要なもの以外は買わない性分なのだ。
 小説といった娯楽といえば、この数冊ぐらいか。

『数多の宵闇の彼方へ』
『キミはプリンセス・ア・ラ・モード』
『チョイ悪な俺との大恋愛を紡いだのは名家のお嬢様だった』

 手堅いものから怪しげなものまで。ちなみにこれらの作者は同じであって、言ってしま
えばわたしの父が執筆したものだ。著者名は本名でしっかりと「ディラード・ナタリス」
と記されている。
 買った覚えがないどころか、持ってきた覚えもないのだけれど。いつの間に引っ越しの
荷物のなかに入れられていたのだろう。申し訳ないけれど全く読んでいない。

 そもそも、君がプリンセスだということなのか、プリンの材料である黄身のことを言っ
ているのか、この本の主旨がいまいち判別できない。
 深く考えると負けな気もしているから、こちらはいいとして……。

 問題は、このやたらと主張の激しい題目のほうだった。
 明らかに父自身の経験をもとに書いた話だということが分かる。何年も前に聞かされた
馴れ初め話とも一致する。
 これは絵本ではないようだけれど、ずいぶんときらびやかな絵が印刷された表紙だなと
思った。
 しかも、この主人公と相手役、本人たちを遥かに美化した造形だ。

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 かつて父が商人として旅をしていたという頃、海辺に構える豪邸に住まう母と出会った
のだという。

 当然、海辺といえば一等地に相当するわけで。繫栄するのは水を制した者だということ
は歴史が物語っている。分かりやすいところで言えば、文明は河川の近くで発展したとい
う事実か。
 水の豊富な場所では作物が育ちやすく、船での移動が可能なことによって物資の調達が
しやすいというのが通説だろう。
 ただ、それ以上に、水には人心を引きつける魔力のようなものがあるような気もしてい
る。

 とにもかくにも、いわゆる身分違いの恋というもので、やはり周囲からの反発は強かっ
たそうだ。

 わたしの見立てでは、そちらのほうは表向きの理由であり、要因は年齢差にあると思う。
 父は母より十二ほど歳が上で、出会ったときは父が三十代で、母が十代の終わりの頃で
あった。母はちょうど今のわたしと同じ年齢であったというわけか。
 そうなると、世間体が悪いからということになるが、それすらも表層のことであって。
 事実はもっと単純で、数字そのものが原因でありそうだ。人は思っているよりも数字に
動かされる性質であると思うからだ。
 国や地域によって多少の言語の違いはあっても、数字だけは古今東西で共通しているこ
ともその証左であるだろう。
 19と31、二十台を跨いでいるというだけでずいぶんと印象が違って見える。

 要するに、ふたりが駆け落ちをして今に至るというわけだ。

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 当時のわたしはまだ子どもであったからか、駆け落ちしたとはっきり告げられたわけで
はなかった。
 しかし、状況としてはそうとしか言えそうにない。
 ナタリスというのは父方の姓であるけれど、それでなくても母が父に付いて行くかたち
だったのだろうということは容易に想像が付く。
 身分違いの恋であって周囲からも認められないとなると、位の高いほうがその家柄から
抜け出さなければ結婚は成立しえない。

 そこまでして一緒になりたかったのかというようなことを母に聞いたことはあるけれど、
答えはイエスで何物にも代えがたいことであったという。
 その転換点というのが海辺での追いかけっこで、母が父を捕まえるというもので――。
 いやいや、恋人たちのシチュエーションとしては分かるけれど、何かが違うというか、
立場が逆なのではないだろうか。
 そう疑問を投げかけるも、ディラードに捕まえてみろと言われたら捕まえるしかないの
よと。あくまで婦女らしい笑みでありながらも、あっさりとした調子で言われてしまった。
 まったく理由になっていないと思うのだけれど、本人たちからすれば辻褄は合っている
ようで……。男女の関係というのは摩訶不思議だなと思う。

 ちなみに、そのときから父の両親はすでに他界していたらしく、現在は母も実家とは縁
が切れているようである。
 そういうわけで、わたしには祖父母がおらず、親戚と呼べる存在もいない。
 しかし、それで寂しいと思ったことは一度もない。
 会ったこともないのだから特別な感慨はないといえばそうだけれど、従来の冷めた性格
も多分にあると思う。

 今でも取り分け不仲というわけではなく、むしろわたしより子どもなのではないかとい
う勢いでじゃれ合っているようにしか見えなかった。
 だからだろうか、わたしのほうもそれほど深く追求しようとする気が起きなかった。
 ふたりで逃げてきたのかと、素朴な疑問のつもりで投げ掛けた記憶はあるのだけれど、
父からは何やらはぐらかされてしまっていた。
 それさえも気にならなかったし、今でもどうでもいいとすら思っているけれど。

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 それにしても、よくそれで納得させられるというか、口が回るものだなと思う。

 そのようなことをそれとなく言ってみたことがあったのだけれど、父のほうもあっさり
とした調子で肯定していた。
 言い訳のひとつやふたつできなければ小説家としてはやっていられないのだとか。
 旅の商人をしていたこともあって、そこは慣れているとも言っていた。
 その甲斐があってか、人の感情や動向などには敏感なほうであるらしく、そこを押さえ
たうえでミスリードなどを狙っていけば大した文才がなくてもやっていけるなんて話もし
ていて。
 あっけらかんとしているというか、よく言えば気さくなのだけれど。

 外見のほうも、文学者のイメージとしてよくある繊細さなどはなく、むしろ強面である
といえる。
 母としては、その辺りに惹かれたのだと思う。
 あと、父は意外と貴族のような雰囲気を持ち合わせている。ただし美しさとは程遠く、
没落したという手合いの。
 そこも、お嬢様であった母と通じるところがあったのかもしれない。

 さらに例えるなら、熟れた果実のようでもあるといったところか。
 小説についていえば、売れていないことはないけれど売れっ子というほどでもないそう
な。
 実際、わたしも全く読んでいないわけなのだし。

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 まともに読んだ記憶のある本といえば、さらに子どもだった頃に買ってもらっていた絵
本を何冊かといったところだ。
 わたしが読みたかったというわけではなく、子どもならこういうものを欲しがる年頃だ
ろうと考えてのことだったようだ。

 印象に残っている話といえば、毒の入った林檎を食べて息絶えた姫の話だ。
 結末としては、王子の登場によって息を吹き返し、彼の妻として迎え入れられたのだけ
れど。

 ところで、この夜空を象った羅針盤を見て、さらに再認識した事柄がある。
 この世界は実際にガラスのような膜に覆われていて、空のさらに向こう側にも、想像を
絶するほどの大きな空間が広がっているという話がある。
 学説によると、宇宙と呼ばれている場所であり、ここのほかにも別の世界が無数に点在
しているのだという。
 瞬く夜空というのは、宇宙という空間が抽象化されて映し出されたものであるともいわ
れている。
 星は、点在している別世界に相当するそうで、遠くて光が届かずに知覚できないものも
存在しているらしい。

 そんな宇宙ですら、さらに無数に点在しているといわれている。
 そこがどうなっているかは誰にも想像が付かないらしいけれど。
 なんとなく、脳を形成する細胞のようなイメージが浮かんだのだけれど、それでは風情
がなさすぎる気がするから、もう少し情緒的に例えてみようと思う。

 わたしは、宇宙の外側には荒野が広がっていると思う。この世でいう荒野ではなくて、
あくまで心象風景といったところだ。
 もとは砂浜で、海もあったと考えることができる。
 創世記に登場する楽園という場所も、ここのことなのではないかと見ている。

 さらに、その荒野もガラスの結界に囲まれているとするならば、砂時計のイメージが思
い起こされる。世界は数字ひいては時間によって支配されているというのなら頷けること
ではある。
 砂が落ちていく様は蟻地獄さながらであるけれど。

 ここでいう砂時計は、ある種の柱であると捉えることもできる。
 人柱なんてものもあるそうだけれど、おそらくここからインスピレーションを得たのだ
ろう。
 この柱は何かを守るようにして囲んでいるか、その何かを支えているかだと思う。
 そして、その何かというのが、棺で眠る女の子のイメージそのものなのなのだろう。
 当然、女の子といっても、この世界からすれば上位の神々のうちひとりに相当する存在
ということになる。わたしたちが認識しているカーナル神とも違った次元の。

 この世界は、その女の子が見ている夢なのではないかと――。

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 もうひとつは、継母や義姉たちによって虐げられ、灰かぶりのような生活を送っていた
女の子の話。
 ある日、城で開かれる舞踏会の招待状が届くのだけれど、例によって彼女たちに意地悪
をされて、女の子は行くことができなかった。
 しかしながら、そこに魔法使いが現れると、女の子を綺麗なお姫様のような姿に変えて
城へと送ったのだ。
 そこで王子に見初められて楽しい時間を過ごすまではよかったものの、午前零時になる
と魔法が解けて元の姿に戻るため、女の子は慌ててその場から去る破目となる。
 結局は王子の従者に探し当てられて結ばれることとなるのだけれど。
 履いていたガラスの靴だけは魔法ではなく、去っていく途中で脱げて残っていたため、
それを手がかりとしたのだという。
 ちなみに継母や義姉たちの顛末といえば悲惨というほかない。

 わたしは、この物語を表紙が擦り切れて取れてしまうまで何度も読み返していた。
 何か心が惹かれるものがあったわけではなく、むしろ怖いとすら思っていたぐらいだ。
 何かに動かされるように文字を追っていたというわけであった。

 今なら、その成因にも見当が付く。
 わたしが女として生まれたにもかかわらず、完全に女であるという意識を根付かせるこ
とに失敗したと。
 カーナル神にそう判断されたため、愛する人と結ばれることが女としての幸せであると、
そのような扇動がてらの洗脳を施そうとでもしたのだろう。
 そうでなければ、結果として子どもを産まなくなるからといったところか。
 子どもという語源は、子を神や仏に捧げるというものである。自分たちの取り分がなく
なるから困ると言いたいらしい。
 そういえば、生まれてから数年の記憶を持っている者はほとんどいない。やはりそのと
きに持って行かれたのだろう。
 赤子に至っては、伝達する手段が泣くことでしかなくて消耗も激しいはずだ。
 現世という地獄の苦しみを与えることによって、さらに搾り取りやすくなると。
 よくもそのようなことに加担させようとしてくれたな。

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 あれやこれやと考えているうちに眠くなり、少しの間うたた寝をしていた。

 昔に読んだ物語のことを思い出した影響からか、奇妙な夢を見る。
 城の広間と思われる場所で、豪華絢爛な料理が並んでいる。
 やはりというべきか、王子と思しき者がいて、着飾った女性たちに囲まれているふうで
あった。
 彼女たちは、王子に気に入られようとして自身を売り込んでいる。
 わたしは、それを他人事として眺めていた。
 それがあまりにも異端であったためか、こちらを見た王子と目が合う。
 状況としてはかなりまずいこととなった。
 振り向かないわたしに対する彼の視線や、取り巻きの女性たちの嫉妬を恐れたわけでは
なかった。
 どこからか見張っているであろう世界の意思のような存在が、わたしが女として機能し
ていないと認識することが。

 早急に手を打たなければと思うものの――。
 今までさんざんいじめてきたけれど、煌びやかと思える夢を少し見せておけば差し引き
零になるだろうという、女性たちをコケにしたような状況ですら腹が立って余裕がないと
いうのに。
 ……鶏の鳴き声か何かだろうか。そういえば、艶めかしい媚態のことをコケットリーと
いうのだった。
 それで、あわよくば王子との間に子を成させることによって、ガラスの結界で隔てられ
た世界を維持する歯車として機能させようという魂胆か。

 そうはいっても、それを王子にぶつけるわけにはいかない。
 彼もそこまで思い当っていない可能性が高い。
 だからとりあえず――余所行き用の笑みを向けておいた。
 それに、王子はもちろん、世界の意思が求めているものも女の笑み。言い換えると、何
も知らずに楽しそうにしている様子だ。
 悲しみから来る涙は、神や世界にとっての餌であるとすれば。笑顔とて即効性はないに
しても同じことである。とにかく感情を発している状態であることが肝要なのであって、
勘定と同じ読みをしているだけある。

 わたしの場合、笑っていても恨みの念はあるということになるから、取り分け毒りんご
といったところか。
 案外、これこそがいちばんの復讐であるのかもしれない。
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