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 今日は早く帰ることができたからだろうか、ふと寄り道をしてから帰ろうと思い至って
西のほうにある森へと足を向けた。

 昼間であれば強い日の光が射しこみ、葉と葉の間で乱反射でもしているためか、自然で
ありながらどことなくきらびやかな光景が広がる。
 今のように夕刻に近い時間帯で、穏やかな日差しによって緑の色が映える瞬間もあり、
それはそれで気に入っている。
 木霊の森と呼ばれていて、光の加減によっては白くて淡い玉が浮かんでいるかのように
映って見えることがあるのだけれど、今日のところはそうでないようだ。
 しかし、それだけでもじゅうぶんに風光明媚な様相を呈していると言える……のだけれ
ど、歩いていると異様な光景が目に映って、近づいて確認してみると――。

「人が落ちている!?」
 いや、倒れているのか――って、そんなことを考えている場合でもなく。
 とにかく様子をうかがってみる。どこか具合が悪いというわけではなく、疲れが溜まり
すぎているといったところか。
「大丈夫ですか。しっかりしてください」
 声を掛けても起きる様子がないけれど、呼吸は安定しているので一安心ではある。

 それにしても、ずいぶんときめ細やかな肌をしている人だと思う。
 まとっている空気にも癖がないというか、すっとした感じがする。
 顔の彫りは意外と深く、なかなかの長身で、そこそこがっちりしているから男の人だと
分かるけれど。
 髪は青――というより瑠璃紺色か。濃い目の色味である割りには透き通っているような
印象を受ける。
 服は白を基調とした高級な素材で、どことなく品のあるつくり。見たところ法衣のよう
ではある。さらには青灰色のズボンに、黒の革靴。これらが彼の容姿を際立たせているよ
うに思う。
 目立つというのは、こういう人のことを言うのではないだろうか。

 ともかく、このまま放置しておくわけにもいかない。
 いくら安全そうな場所であるとはいえ、ここが森のなかである以上、いつ外敵に襲われ
るか分かったものではないからだ。森そのものが牙をむくということだってじゅうぶんに
考えられる。
 それに、辺りはずいぶんと冷えてきた。急いでここを離れる必要があるだろう。

 わたしは、彼を背負うようにして立たせ、首の後ろに彼の腕を回す。
 普段から調理をしていて、フライパンを片手で回したり、重い鍋を持ち上げたりしてい
たため、荷物を持ったまま大の男を引きずって帰るぐらいならできるだろうと思っていた
のだけれど……。その思っていた以上に彼のほうが鍛えられているようで、筋肉が多いた
めか、とにかく重い。
 おまけに眠っているため、力が抜けているのだから当然ではあるのだけれど。

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 ようやく家路につくことができた。

 家といっても古いアパートで、お世辞にも広いとは言いがたいけれど、ひとりで生活す
るにはじゅうぶんであると言えるし、人ひとりを休ませるぐらいなら余裕であると言える。

 気を失ったままの彼を寝かせる。
 通りかかった人たちが運ぶのを手伝ってくれて助かった。

 ひとまず湯を沸かしておこう。
 食べるかどうか分からないけれど、彼の分の食事も用意して……。
 不幸中の幸いと言うべきか、今日は食材も買い取ってきたから、ふたり分の余裕はある。
 いつもなら、家に帰ったときは適当に済ませてしまうところだったのだけれど。
 絶えず調理をしているときの反動からか、市販の冷凍ものが食べたくなることが多いの
だ。
 ちなみに今は、電子レンジが壊れた状態で買い替えていないため、どちらにしても焜炉
の火に掛けるしかない。

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 ようやく夕食の下準備ができたという頃、後ろのほうで何かが軋む音がした。

「あれ、ここは……」
 そう呟いた彼が上体を起こして首を左右に振ると、透き通った瑠璃紺色の髪が揺れる。
「起きましたか」
 わたしは、彼のほうに向かって歩き、屈み込んで様子をうかがう。

「……え?」
 目が合うと、信じられないものを見たように強張る彼。
 それ以上に、年格好に似合わず、路頭に迷った子どものような表情をしているようだと
思う。
「驚かせて申し訳ありません。ここは旧市街ディートの、わたしの部屋です。木霊の森で
気を失っているのを見付けて、ひとまず運び込んできたんです」
 この市街地にも小さな診療所はあるのだが、そこへ連れて行くのは何となく違う気がし
て今に至る。
 それだけ言うと、彼もはっとしたようにこちらへ向き直る。
「いや、こちらこそ。ちょっとびっくりして。助けてくれてありがとう」
 何というか……、とぼけているふうではあるけれど、やはり気はいい人のようだ。
「正確には、わたしひとりが運んだのではなく、途中で会った人たちも手伝ってくれたの
ですが」
 そう言った瞬間、何かを確認するかのようにきょろきょろと辺りを見回していた彼の顔
がみるみるうちに青ざめる。
 どうしたのだろう急に。体調が悪化したふうではなさそうだけれど……。

 わたしも改めて辺りを見回してみて思い当った。
 このアパート、お世辞にも状態がいいとはいえない。部屋の掃除は頻繁にしているのだ
けれど、どうしても限界はある。それを目の当たりにして衝撃を受けたといったところか。
 彼自身、清潔感のある格好をしているし、無理もないと思うけれど。
 それを差し引いても、住む場所の状態はきちんと見極めてから選ぶ印象はある。
「その……、年季の入ったワンルームなもので、多少の見苦しさは堪えてもらえればと」
 そう言うと、彼ははっとして、慌てた様子をうかがわせる。
「べ、別にそういうわけじゃ……。こちらこそ長居しすぎたみたいでごめん。僕そろそろ
帰――」
 そして、そう言いかけた彼は、どこかが痛み出したようで、そこを庇うようにして蹲っ
た。

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 傷の手当てを済ませると、彼もようやく落ち着いてきたようだ。
 ただ、ある意味恐縮させてしまったようではある。
 ディートに住んでいたら怪我のひとつやふたつなどは絶えないし、このくらい気にする
必要はないとは言ったけれど。

「ところで、食事はできそうですか。一応、多めに準備してたところですが」
 そうたずねると、今度はきょとんとした表情をうかがわせる彼。
「ああ、もしかして。知らない人が作ったものを食べるのは抵抗があったりしますか」
「いやいや、そんなことは。むしろ願ったりかなったりで――」
 そこまで言いかけて、今度は自分の発言に衝撃を受けているようだ。まったく、忙しい
人だ。
 とりあえず、嫌というわけではないのならと、夕飯を食べていってもらうことにした。

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 テーブルに並べているのは、こんがりと焼いたガーリックのトーストに、じっくりと煮
込んだビーフシチュー。そして野菜を彩りよく盛りつけたものなども。

「いただきます」
 心なしか緊張したように、何よりも感極まったように言う彼。そして食事を口に運ぶと、
まるで幸せでも噛みしめるかのように。余程おなかが空いていたようだ。
「やっぱりナユカの手料理はおいしいな。それに、なんだかお洒落だ」
「やっぱりって、料理の腕を疑ってたんですか」
「違う違う。なんて言うか、予想外だったからさ」
「まあ、言いたいことはわかります。わたし、酒場で働いてるので慣れてるんです」
「なるほど」
 納得したようではあるが、それほど大きなリアクションではなかった。
 それはそうと、少し疑問に思うことがある。
「わたし、さっき名乗ったでしょうか」
 すると、今度は大きく目を見開く彼。驚く基準がいまいち分からない。
「ああ、ディートの不死鳥って呼ばれている赤髪の女性で、ナユカって名前の人がいると
聞いたことがあるからさ。君のことなんだろうなと思った」
「そんなに噂になってるんですか。その……、物騒ないきさつですし、いろいろと恥ずか
しいので、できれば忘れてもらいたいんですが」
 すると、彼はおかしそうに、けれど柔らかく笑った。
 まあいいかという気持ちになってきて、心が洗われるような気さえしてくる。
 なるほど、少し変わっているようだけれど、心根は純朴であるのかもしれない。

「ところで、木霊の森にいた理由をお聞きしてもかまいませんか」
 またもや彼は目を丸くしたが、それも一瞬のことで、すぐさま何か思い当ったように答
える。
「察しが付いてると思うけど、僕はフュステのほうから来た者でね。それで、疲労が溜ま
ったままだったこともあって、仕事中に思わぬ事故を起こしてしまったというわけさ」
 流暢に説明しているふうではあるけれど、どこか端折っているようでもありそうだ。
 あの聖地フュステからわざわざやって来るぐらいだから、かなり込み入った事情がある
と見たほうがいいかもしれない。
「でしたら、詳しいことは聞かないほうがよさそうですね」
「正直タスカリマス」
 彼は心底ほっとしたようで、最後のほうは片言になっていた。なかなか愉快な人だ。

「そうだ、お願いがあるんだけど」
 今度は、わたしが食事をしていた手を止めて彼を見る。
 どことなく切実さが見て取れるけれど……。
「できれば敬語は抜きで話してくれないかな」
 ……なんだ。深刻そうに言うから、もっと差し迫ったことかと思った。
 働きに出ているから、年上や初対面の人などには礼を失しないように普段から気を付け
ているだけで。
 しかし、相手からのお願いとあれば話は別だ。わたしもそうすることにさほど抵抗があ
るわけではない。
「ええ、分かりま――分かった」
「それから、僕のことはタキって呼び捨ててほしいんだ」
「タキ……それが名前か」
 彼――タキは、どことなくおずおずと、静かに頷いた。
「爽やかな印象を受けるけど、それでいて雄大で、どことなく激しい感じもするかな」
 何気なくそう言ってみると、何だか戸惑っているようであった。
 褒めたつもりではあるけれど、気に入らなかっただろうか。
 しかし杞憂であったようで、彼は嬉しそうに笑う。それは今にも泣き出しそうですらあ
るほどだった。

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「それじゃ、ごちそうさま」
 それだけ言うと、タキは持っていた荷物を手にする。
「今から帰るのか」
 時刻は完全に日が落ちる一歩手前だ。この市街地に宿らしいところはないし、オーディ
ルの都まで歩いて行くにしても外は真っ暗になる。
「一応、歩き慣れてる道だから大丈夫だよ。列車なら夜遅くまで出てるから、それに乗っ
て帰るし。それよりも……」
 わたしの言いたいことを察したように答えた後、急に真剣な表情で何かを言いかける。
……今度は何だというのだ。
「軽率に部屋のなかに男を入れるのはどうなんだい。ただでさえ治安が悪い場所なのに」
 な、なんだかいきなり説教くさくなったな。この読めなさ、嫌いではないけれど……。
「普段は誰も入れないけど、この場合は急を要してたからな」
「はあ、それを言われるとつらいけど」
 がくりと項垂れるタキ。いちいち反応がおもしろい人だ。
「そもそも、本調子ではない体で何ができるというんだ」
「それもそうなんだけどね」
 それにしても、男の人のほうからそういった忠告を受けることになるとは。変な感じは
するけれど、やはり悪い気はしない。
「ひとまず気を付けておく。ありがとう」
 タキは、まだ不安が残るといった面持ちではあったけれど、とりあえず納得はしてくれ
たようだった。

「あ、忘れるとこだった」
 タキは、何かを思い出したように荷物のなかを探る。
「これ、今日のお礼というにはささやかだけど、受け取ってくれないかな」
「これは……羅針盤?」
 差し出された半球のそれは、彼の手にすっぽりと収まるほどの大きさで、彼の髪と同じ
く透き通った瑠璃紺色をしている。
 球体の側には星座が描かれていて、きらめく夜空を思わせる。地上の側に描かれている
図形や針と合わさって、さらに乙な雰囲気が出ていると思う。
「いいのか。こんな高価そうなもの」
「なんとなく気になって、フュステのほうにある、とある町で購入したんだけどさ。僕に
は使い道がないし、気持ち程度のお土産ってことでどうかな」
 おずおずといったふうではあるが、そう言う彼の言葉には強い意志のようなものを感じ
る。
 そこまで言われて断る理由なんてなかった。
「そういうことなら喜んで。どうもありがとう」
 すると、今度こそただ微笑んだ彼は、夜の列車に乗るべくして都のほうへと向かってい
ったのだった。

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 夜、月明かりが射しこんできた頃。
 星空の描かれた羅針盤を窓辺に置き、そこに淡く映し出された光との趣を楽しみながら、
わたしは早めの眠りに就いた。
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