時は流れて、星煌暦七六九年。この世界アルテュルナは、文明といえるほどの発展はな
かったものの、多種多様の文化を築いてきた。
国という概念はないが、王族の住まう都市アーメンベーレが必然と世界の中心となって
いる。いわゆる城下町であるのだが、城壁らしいものは見当たらない。町の出入り口や、
船の停泊所、そして城の門前に数人ずつ衛兵が構えているのみである。
アーメンベーレは海に面しており、港町として認識されていた。ほかの町との交易が盛
んで、観光の地としても申し分なく、年じゅう行き交う人々でにぎわう。陽に照らされる
と、海原の効果も相まって、きらめくような外観を印象づける。
しかし、今は曇り空であった。それでも、人の波は衰えることなく、けん騒は増すばか
りである。ただ、かもめたちの歌うような鳴き声が聞こえてこないことについてはいつも
と違っているが。
ときに、ざわめきのなかでも、このような会話があった。
「なあ、知ってるか。レオヴァート王子が生まれて、それっきり姿を見せない理由を」
「さあ。よっぽど人に見せたくない顔をしてるからじゃねえの?」
「それはないわよ。王様と王妃様は美男美女として知られてたんだから、王子だって美男
子に違いないわ」
「親から聞いた話なんだけど、王様だって十八歳になるまで姿を見せなかったそうよ」
「それに、王様は、お姿を見せる前は世界じゅうを旅してたそうじゃない。その先で王様
に出会った人の話では、後から知ってびっくりしたそうね」
「なにか王家の秘密のしきたりがあるとか?」
「よく分からんが、別に怪しいことなんてないんだろう。王様の人柄はだれだって知って
るとおりだからな」
「まあ、今まで平和に暮らしてこれたのも、王様の統治のおかげよね」
場所は変わって、町のなかでも厳かな存在感を漂わせてそびえ立つ、王族の住まう建物
でのこと。城内は、町の澄んだようなきらびやかさとはうって変わり、荘厳な優美さが強
調されている。壁や天井に施されている装飾、絵画や彫像、シャンデリアなど、どれも意
匠が凝らされたものだ。
謁見の間と呼ばれている場所では、王が座しており、彼を守備するべくして側近の兵士
たちが立ちつくしている。赤い幕が張られた通路の周囲には、こうべを垂れて居並んでい
る兵士。もちろんというべきか、機密となる事項の扱いも兼ねることが可能な者たちを選
びぬいたといったふうでもある。
そして、王と向かい合うようにして立っている、成人する手前の年ごろである若者がひ
とり。年齢に差があるとはいえ、両者の姿かたちは似ている。つまり、彼は王子である。
彼も、王に準じて豪華な衣装に身を包んでいる。涼しげな容貌で、凛とした顔つきではあ
るが、まだどことなくあどけない。
「レオヴァートよ、出立の準備はできておろうな?」
王は、威厳を漂わせ、それでいていつくしむような声でたずねる。
「はい、父上。来週には出発できると思います」
そう答えた王子の声は、透きとおるような調子のものであった。
「ふむ。以前も申したことだが、旅の目的は、即位する前の儀式と同時に、世の見識をひ
ろめるためにある。しっかりやるのだぞ」
「ええ、心得ております」
「それと、旅の途中で身分が発覚するようなことがあれば、民たちに甚大な影響をもたら
すにとどまらず、お前の身にも危険が及ぶやもしれぬ。決して本名をもらさぬようにな」
父との対話を終えた王子は、先ほどの豪華な服を着替え、戦闘をするにも差し支えのな
い身なりで城内を歩いている。傍から見ると奥へと進んでいっているようではあるが、外
に続く門へ向かっているのだ。正門から出たところを民たちに見られることを防ぐため、
裏手にある門へと。
城の敷居から離れ、道場のほうへと差し掛かった頃。
「レオヴァート様。どこかにお出かけですか」
王子の名を呼ぶ、低いというほどではないが重みのある男の声。王子――レオヴァート
が振り向いた先にいる、そのぬしは、教練を終えた後であるためか武装していた。武人で
はあるが、ごつごつしているというふうでもなく、むしろ穏やかな雰囲気をまとっている。
年の頃は二十代の後半といったところか。
「ガッセル」
レオヴァートも、慣れ親しんでいるといった様子で彼の名を呼んだ後、
「もう。城の外ではその名前で呼ばないでよ。それから敬語もなし」
先ほどのかしこまった様子とは裏腹に、不満をもらす子どものような口調で言う。
「そうだった。悪い、レオン」
ガッセルのほうも、即座に、慣れ親しんだ口調へと変わる。
レオヴァート改めレオンは、普段から使っていたらしい偽名で呼ばれると、満足したよ
うににこりとした表情へと変わり、
「世界を見てまわることになったら、いつ帰って来られるか分からないからさあ。町をよ
く見ておくついでに、周辺の視察に行こうと思ってたんだ」
「今からか? もう夕刻近い。それに、一雨降りそうだが」
「だからこそだよ。この時間はなにかが起こりそうな予感がするしさ。それに、雨が降る
となるといても立ってもいられなくなるよ」
内容とは裏腹に、好奇心を刺激された様子で、楽しげに言う。
ガッセルは、そんなレオンを見て一息つき、
「レオンの剣と魔法の腕はよく知ってる。とめる理由はないがな」
「だって、僕に剣の稽古をつけてくれたのはガッセルじゃないか」
「ああ、そうだったな」
そして、レオンは、目だつというほどでもないがそれなりに豪奢な、自身のつるぎを手
にすると、
「それじゃ、行ってくるよ」
あくまでちょっとどこかに出かけてくるといった調子で告げて、駆け足で去っていく。
ガッセルは、そんなレオンの姿が見えなくなった後も、なにかが気がかりなまなざしで、
その方向をしばらく見つめていた。
身分を隠して町なかや外に行くために使う、レオンという偽名。そして、上質ではある
が王族であるとまでは思わせない身なりである彼は、すっかり民衆のひとりに扮していた。
彼自身も、美男子であるといっても差し支えはない滑らかさのある肌をしているが、裏を
返せばあっさりとした印象であり、目だつというほどでもない。さらに、青い色の髪が清
澄さを引きたてており、視認による効果は薄い。晴れわたっているときでももちろんのこ
とだが、空が曇っている、視界が良好でないときであるならなおさらだ。雨が降ったとな
ると、もう識別はできそうにない。水と同化しているようでさえあった。
やがて、町の見まわりもとい見物を終えたレオンは、外へと向かっていく。まるで、辺
りが暗くなっていくとともに、彼の姿も消えていくかのように。
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