+. ホテルマンと恋話・破 .+
 そろそろ人々が寝静まろうとする時刻のこと。……と言っても、この町では夜間のほう
がにぎわうのだが。
 俺はというと、なぜだかホテルのフロントにいる。いや、別に夢遊病のごとくここへ来
たわけではない。自分の意志でここにいることには違いないのだが、どういう風の吹きま
わしなのだか、俺自身にもよく分からない。
 俺は、このホテルの支配人であるミカゲと、なりゆきで会話をくりひろげていた。
 チェックインするとき、彼にはそれほどいい印象をいだいてはいなかった。理由は簡単、
俺の彼女リアちゃんがうっとりとした様子で彼を見ていたからだ。
 そうだというのに、彼に気を許そうなどと思い至ったのはは、手続きをするときにリア
ちゃんをかまいつけずに俺のほうに話を振ってきたからだとか、そんな単純な理由なのか
もしれない。

 それにしてもだ、この彼、ホテルマンとしては珍しい性質の人間ではないだろうか。
 別にけなしているわけではなく、どちらかといえばほめているのだと思う。なぜだと問
われれば自分でもよく分からないが。
 彼いわく、ここの経営者の親戚筋であるため、ときどきこのような手伝いをしているの
だとか。
 そこで、いやな言いかたをするとだ、彼の人気ぶりからすると、ずいぶんと儲かってい
ると思う。親戚とやらにはそこを利用されているのではないだろうか。
 そのことをそれとなく伝えてみると、彼本人はこれもまたずいぶんとのん気なもので、
給料はしっかりもらっているからかまわないなどと言っていた。
 しっかりしているように見えるのだが、大ざっぱというか、なんというか。まあ、心は
広いのかもしれない。

 ときに、彼の人気ぶりは相当なものだと思うが、彼自身には意中の相手などはいないの
だろうか。
 ――などということをうっかり問いかけてしまうと、
「いますよ」
 などと、あっさりと答えられてしまった。
 その流れで、どのような人かと聞いてみると、簡潔にだが教えてくれた。
 一言でいえば、太陽のような人だと――。
 確かに、いちばん好きな人のことはそうとらえるよな。そう思ってあまり真に受けて聞
いていなかったら、彼は次のように語りだす。
 ただひとつ特別な、光り輝いて見えたからというのはもちろんのことではあるらしい。
見た目も色白で、柔らかな印象を受けたからだとも。
 しかしながらもっと大きな理由としては、彼女はひとりで外にいることが多かったから
なのだそうだ。そうはいっても人が嫌いというわけではなく、来る者は拒まない、受け入
れる大らかさも持ち合わせていたからだという。

 俺としては、彼のほうこそ太陽のようだと思う。厳密にいえば月のように見える太陽。
本当は熱いものを秘めているふうなのに、敢えて柔らかな物腰で振るまっているような。
 このことからしても、彼は非常に珍しい性質の人間ではないだろうか。
 例えば、もとは月の画像を太陽に見せかけるというだけなら、職人によってはそう難
しいことではない。しかし輝いている太陽を月に見えるように加工しようとすれば、そ
れなりのセンスと労力が問われるだろう。
 大半の人間は、気分が沈んでいるときであっても、明るく振るまうことはそれほど難
しくないだろう。しかし元気のあるときに陰鬱に振るまうことができる者などそうそう
いないだろうし、しようとも思わないはずだ。
 ついでに、声楽をやっているやつから聞いたのだが、高い声は努力次第で出せるよう
になるが、低い声はあまり出るようにならないどころか、無理をするとのどを壊してし
まうのだそうだ。

 太陽といえば、象徴として持ち出されるのがカラス。カラスといえば濡れ羽色。濡れ
羽色とは、黒のなかに青や紫、緑の光沢を含んでいるもののことだ。
 彼の、黒い髪と、黒のスーツ姿がそう思わせるのだろうか。それでいて、芯の部分で
は光を帯びているような。
 見た目だけに関していえば、彼はどこにでもいそうな感じではある。しかし近くでよ
く見てみると、彫りが深く、整った顔だちをしているのだ。
 美形であるかどうかは個人の好みによるだろうが、水も滴るいい男といわれる部類で
あることは間違いない。

 そんな彼がほれこんだという彼女は、空が好きでよく眺めていたのだという。
 彼は、空は好きかと聞かれたときに、一瞬だけ戸惑ったのだそうだ。嫌いではないが、
とりわけて興味があるわけではないということか。
 どの空がいいかと聞かれたときには、とっさに夕空だと答えたらしい。青空と夜空の
間を取ったということに加えて、きみとずっと一緒にいられる気がするからだというポ
エム付きで。
「残念ながら、彼女にとっての空になることは叶いませんでしたが」
 続けてそんな詩を口に出したりなんかしていたが。
「どちらかといえば、重く迫られる海のようなものです」
 ……あれ。そう言われるとかすかに違和感があった。
 海に迫り来られるということは、彼自身は海ではなく、泡沫のようなもの。つまりは
空気であって、広い意味では空になるのではないか。
 それに、彼の瞳こそ突き抜けるような、澄んだ色をしているように思う。
 そのことを述べると、彼はぽかんとしたまま、時が止まったかのように固まっていた。
 彼はいろいろなことを見通していそうなものなのだが、自分のことに関してはあまり
分かっていないようであった。

 不意にここで、賽の河原というものを思い出した。
 まず、あの世とこの世の境であるとされる、三途川というものがあるといわれている。
 それで、その河原では、親より先に死んだ子どもたちが、その報いとして石を積み上
げて塔をつくるという刑に処されるのだ。しかもそのたびに鬼がやって来てそれを崩す
のだという。
 これってバブルの塔だとか、そんな名前だったはずだ。バブルっていうと泡のはずだ
が……、まあ川にとっての石は、水にとっての泡のようなものか。
 空に浮かぶ星とか雲とか、雨や雪といったようなもので。陸の上の湖とか、砂漠のな
かのオアシスとか、そういったものか。
 両者は同一のもののように見えてもまったくの別物なのだ。陽中の陰とか、陰中の陽
とか、そういったものであろう。
 とりあえず、水のなかの泡とか、川のなかの石は、押しつぶされたり削られたりしな
いよう、存在を保つことも並大抵ではないだろうな。
 それにしても、崩れてはまた積み上げられる石といい、空に昇っては降る雨や雪とい
い、まるであれだな。そう、確かリンゴ転生というやつだ。人も死んでは生まれ変わる
ことを繰り返しているといわれているあれ。別名リンゴカーネーションだったか。
 三途川には、ほかにも逸話があって、六文銭を持たずにやって来た者たちの衣類をは
ぎ取る変た……婆さんがいるというのだ。ダツエバだったか、ダツイブだったか、そう
呼ばれていたと思う。さらにはその衣類を木に吊り下げて、生前の罪の重さを測るとい
う爺さんまでいるという話だ。
 地獄の沙汰も金次第とはこのことか。おっかねえ話だな。ちなみに天国の沙汰でいえ
ば愛次第だというのだから、どちらもやっていることは同じだし、あまりいいものでは
ないよな。
 ――なんていう思考に浸っていて、ぱっと顔を上げると、彼ミカゲはにこりとほほえ
んでいた。

「それでは、わたくしはそろそろ明日の食事の仕込みをしてきます」
 そして、彼がそうさらりというと、今度は俺のほうがぽかんと口をあけて固まった。
彼は料理までするのか。しかもここのホテルの料理、そこらの飲食店のものより美味い
と評判なのだが、まさか……。
 すると彼は、料理する機会が多かったですから、なんて、これもまたあっさりと。
 ああ、彼なら何ができても不思議ではないよなと、妙に納得してしまった。
 ただ、気になることがひとつ。普通の人なら分かっていること、というより、分から
ないはずがないこと。もしかしたら彼には分かっていないのではないだろうかという疑
惑があるもの。それは……、
「あの……、包丁は食材じゃないですからね」
 俺がそう言うと、彼はさらにぽかんとした表情を浮かべたが、またすぐに笑っていた。

                       〜 ホテルマンと恋話・破(終) 〜
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