+. とあるホテルマンの憂鬱(前編) .+
 夢のなか、俺はエレベーターに乗っていて、どこかの階に着いたようで、そのまま降り
た。場所はどこだかはっきりしなかったが、内装はホテルのそれに近く、どこかの会場に
続く通路であるようだ。
 俺の目前では、多くの人が混みあっていた。彼らは一様に、うっとりとした表情で、ぞ
ろぞろと例の会場へと向かっているようであった。

‐‐‐

 現実の俺は、出張のため、リーゼフのほうに来ていた。今は、宿泊のために手配してあ
ったホテルを探しているところだ。この都市には、やたらときらびやかさを誇る建物が密
集しているためか、目的の箇所を探し当てることも容易ではない。
 ようやく目的地に着くと、入り口のほうには人が密集していた。大体が若い女、少数で
あるが男もいる。なにごとかは分からないが、泊まることになっているホテルの前である
ことには変わりがないのだから、とりわけて気にすることなく、俺もそこに向かっていっ
た。
 そして、その集団とともに、ホテルのなかへと進んでいった途端、
「きゃー! ミカゲくーん」
 彼らは、黄色い声をあげながら、ミカゲくんというらしい、フロント係の男のほうへと
駆け寄っていく。ずいぶんともてているようだ。
 しかし、嫉妬の感情はわいてこない。それどころか、マナーのなっていない客にひたす
ら騒がれていることについて、同情さえしている。俺の歳は四十を越えていて、あのミカ
ゲくんという彼は割りと若いということもあり、比べものにならないからだというのもあ
るかもしれないが。
 そのミカゲくんはというと、目の前の状況に不快をおぼえているわけでもなく、慌てた
様子すらなく、順に並ばせていた。落ち着いているどころか、にこやかに応対しているこ
とから、営業する余裕も失われていないようだ。慣れもあるのだろうか。
 それにしても、この光景は、今朝に見た夢の様相と重なる。違いといえば、恍惚とした
喝采ではなく、どこまでも透きとおるような歓声であることか。
 彼の立ち振る舞いは、営業用であることを差し引いても、どことなく気品があり、動作
のひとつひとつが美しい。舞台のスターのように人目を引いている。それに加えて、黒い
髪をしており、黒いスーツを着こなしているものだから、そこも魅惑の要点となっている
のだろう。
 国境の近くに位置するこの地は、裏社会に通じているなどといういわれとともに、サー
ビス業を営んでいる者たちの持て成しも素晴らしいと聞いていたが、これは予想以上だ。
清濁が混在する都市、そして運命の分岐点、か……。
「おまたせいたしました。どうぞ」
 思考に浸っていたそのとき、彼の声がそうはっきりと俺のほうに向けられる。意外にも
よく耳にとおる声であった。ほかの客たちのチェックインが済んだらしく、やや遠くのほ
うで待っていた俺を呼んだというわけであるらしかった。
 いざ近くで対面すると、俺は、はっと息をのむこととなる。若い男だとは思っていたが、
これほどまでにと。おそらくまだ成人しておらず、その手前といった年齢であろう。
 彼の応対は、さえない中年の男である俺に対しても、先ほどと変わらない。これほどま
でに手厚くされたことは今までになかったためか、彼の存在には現実味がなく、これこそ
夢を見ているようでさえあった。

 ちょうど夕食を終えた頃、時刻は夜に差しかかる。娯楽が充実していて、きらびやかさ
をも誇るこの都市は、これからが盛りあがり見せる頃合いである。
 そうだというのに、ホテルの宿泊客たちは、ロビーに集って、フロントにいる彼との対
話に興じている。かくいう俺も、日頃の疲れもあってか、体を休めるべくして、コーヒー
で一服するついでに、やや離れた位置の席に腰を掛けている。
 そのミカゲという彼は、老若男女それに人種を問わず、だれとでもそつなく会話を繰り
ひろげていく。それも相手の気質に合わせた、的確な対応であった。相手の口数が多けれ
ば適当なところであいづちを打って、口数が少なければ話を引き出すといったあんばいだ。
 それに、相手との距離のとりかたにもたけていた。突き放しもしないが、深入りもしな
いといった、実に絶妙なところを突いているのだ。愚痴を聞いているときなどは、一緒に
なって悪口を言うでもなく、それは困りましたねと、相手の気持ちに寄り添いを示すのみ
であった。のろけの類だと判断すれば、そういうのって実はうらやましいですなどと言っ
てみせる始末だ。
 なかでも強く印象に残っている話のうちひとつは、けがをした子どもと話していたとき
のことだ。その子はあまりにも泣きじゃくるものだから、彼はすかさず、
「痛いの痛いの、カーナル様のところにかえってゆけ」
 などと過激なことを言っていた。まるで、音楽劇での歌唱であるかのような調子だ。
 その言葉に、その子はおどろいたようで、ぴたりと泣きやんだ。先ほどまでおろおろと
した様子でわが子の身を案じていた母親も、ひやりと固まった表情で彼を見やった。
「だ、だめだよ。そんなことをしたら、こんどはカーナルさまがいたいのになっちゃう」
 その子も、先ほどまで痛がっていたことを忘れて、カーナル様の身を案ずる。
「だいじょうぶだよ。カーナル様がお与えになったものをかえしただけだから」
 ふわりとした口調で、くちびるに人さし指を当てながら言う彼。この笑顔の向けかたも
計算されたものなのか、タイミングが絶妙であった。
「カーナル様なら、痛いのをなくすぐらい、きっと一瞬だよ。それに、神様なんだから、
痛いのをかえしたぐらいで怒ったりなんてしないさ」
 な、なるほど。やはり過激であることには変わりないが、そう言われてみればそう思え
ないこともないか。
 それよりも、子どもにまで名刺を渡していた彼。そちらのほうが思いがけない光景では
あったが。
 次は、老夫婦と話していたときのことか。女性のほうの、このひとことがきっかけであ
った。
「今晩の、野菜をふんだんに使った料理、とてもおいしかったよ。作りかたを教わりたい
もんだねえ」
 なんと。あれはこの彼が作ったものであったか。あの不思議な味、技量を盗むことなど
到底かなわない。
 その彼はといえば、
「まずは種を手に入れて、畑を耕してまきます」
 などと根元からのことを話す。けむに巻いていながらも、至極当然のことを述べるとい
う絶妙さの加減が受けていたようだ。
 彼はあか抜けた雰囲気であるのに、ずいぶんと土くさいことを言うものだ。そのような
ところでの隔たりもおもしろい。しかしながら、不思議とちぐはぐな感じはしない。
 ちなみにその後、彼は秘密にしようとする様子もなく、その調理法を教えていた。それ
ほどにまで、同じように作らせない余裕があるということなのだろうか。
 それからも、彼との会話を目的とした客たちがちらりほらりとやって来る。もちろん、
なかには無礼な者がいないわけではなかった。
 取るに足りないようなことで苦情を入れてくる者などもいた。意味は少し違うが、鬼の
首を取ったようにという表現が合う気がする。ミカゲという彼は、相手がだれであれ、ど
こまでも笑顔で、それでいてすきをうかがわせない凛々しさを兼ね備えた表情で応じてい
た。そのためか、当の客は、自身の器量の狭さを感じて委縮していたようだ。まあ、尊厳
とやらが許さなかったのか、おどおどとしながらも注文をつけていたが。そのようなもの
に対しても、彼はにこやかでいて真摯な姿勢を崩さなかったものだから、その客が返り討
ちに遭ったようなものであった。
 さらに、彼に、いわれのないうらみつらみをぶつけに来る者が絶えなかった。
 彼はというと、この状況にも落ち着きをなくしていないどころか、接客のうまさは相変
わらずであった。相手が客であれ、これは怒っても許されるであろう文句に対してもこの
調子である。
 ミカゲという彼は、向けられる悪意に気づかないほどの好人物なのだろうか。それとも、
怒りを向けるまでもないという、余裕の現れであるのだろうか。
 あまりにも手に負えないような相手であれば、へらへらという具合に、ばかっぽく振る
まっていることもあった。これはさすがに故意だということは分かるぞ。話にならないと
思わせてひかせるつもりなのだろう。まだ成人する手前である、その外見も活用したのだ
と思う。
 よくもまあ、それだけ笑顔を絶やさずにいられるものだ。いずれその仮面が張りついて
はがれなくなるのではないかと心配になってくるほどだ。
 そして、このロビーにひとけがなくなってきた頃。俺は、カウンターにいる彼と目が合
う。すると彼は、照れているような、困ったような、そんな笑みを浮かべた。


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