神殿において最も優美な外観を誇る玉座。きらびやかというよりは清らかな様相がなお
のこと厳かさを高めているふうである。そんななか、特に緊張した様子もなく、教皇と向
かい合っている彼の姿があった。この空間の美しさに見とれているようでもなく、ただた
だたたずんでいる。
「――なんと。かの娘に、魔女にゆかりのある場所を案内したいから、ひとときだけ牢か
ら出してやってほしいとな」
最高位の座を冠するだけに、言葉の端々にさえ威厳を感じさせる。
「はい。最期のときぐらい、母親が聖女であった頃のことを聞かせてあげよう思い至った
次第です」
彼はというと、おそれた様子もなく述べた。
「いいだろう」
すると、あごに指を当てるそぶりをのぞかせたものの、それほど考えこんだ様子もなく
了承する教皇。
「ただし、かの娘が妙な動きをせぬよう、歩く以外には手足の自由が利かない状態にして
おくのだぞ。要所には見張りもつけておく」
「承知いたしました」
やはり眉ひとつ動かさずに返事をする彼。教皇は、そんな彼を一瞥すると、
「ときに。そなたを牢の番人に指名した、おおよその理由は察しがついておるな?」
「はい」
「しかし、いくらあの女の娘だからといって、情が移るようなことがあってはならぬぞ」
「心得ております。任務に私情をはさむようなことなどいたしません」
決意を固めたというふうに前を見すえて述べる。そんな彼を確かに見た教皇は言う。
「ならば結構。牢の鍵は、あすの礼拝の後に渡そう。そのときにでも案内してやるとよい」
彼は、一礼をすると、この場を後にして、彼女のもとへと向かう。
神殿の地下は、教団の業が蓄積された空間であるかのように、相も変わらずさびついた
ような雰囲気が漂う。彼女は、この薄暗い場所に設けられている牢に捕らえられている。
かたちばかりの灯火が設置されている地下の通路の奥、まるで出口であるかのように明
るい箇所。それほど強い光が射しこんでいるわけではないが、この不気味さのなかでは、
ひときわ輝いて見える。そんななかに、彼女はいた。
彼女は、鉄格子を挟んだところにやって来た彼の姿に気がつくと、電灯の明かりを頼り
にして読んでいた本を置いて立ちあがる。
「あら、おかえりなさい」
彼はこの牢の番人であるのだから、帰ってきたという表現は当てはまらないのではある
が。彼と彼女の会話は、いつも、合間に鉄格子を挟んだ状態ではじまる。
彼女をじっと見つめる彼。見とれているというよりは、どうしたものかと考えをめぐら
せているふうである。
「どうかしたのかしら。まさか今さらほれただなんてことはないでしょう」
「いえ。どこに行っても目だちそうな容貌だと、ふと思っただけです」
そう答えられると、彼女はほほえんで、
「そうね。ずいぶんと落ち着かない思いもしたけれど」
ひとりでいるでもない限り、だれからも見られていないことがなかったため、落ち着け
るときがほとんどなかったのだという。そのひとりでいるときでさえ、だれかに見られて
いる予感がぬぐいきれないことまであった。それでも、どこかに行けば、だれかに見られ
ることは必然であり、だれに見られるかは知れない。ならば、幾人に見られようが変わり
ない。そう考えることで自身を納得させていた。
問題であったのは、彼女を放っておかない者たちもいたということである。彼女の存在
はひときわ異なって見えていたためか、彼女を遠巻きに見ているだけの者が多く、会話を
したとしてもよそよそしさが残るのが常であったのだが、そうであったからだというべき
か、逆に踏みこんでくる者も少なからずいた。答えにくいことをたずねられたり、なにを
言われたりしても、持ち前のしなやかさでどうにか対応できていたのだが、彼女のかばん
や机のなかになにか覚えのない物が忍びこんでいたときは、さすがに気味が悪かったそう
だ。とられたのではなく、入れられていたのだ。彼女がどういった反応を示すのか、観察
することで楽しむのが目的だったのだろう。
そんなこともあってか、彼女は、世間から身を隠したいと願うようになった。だれかと
会話することが楽しくないわけではなく、応じてもらえるとうれしいことには変わりない
が、そのうえで、だれの目にも入らず、耳にも届かない快感を思うのだ。今まで生きてい
たなかでいちばんよかったできごとはなにかといえば、自動扉が自身に反応を示さなかっ
たことだと答えそうなあんばいだ。
今まで出会った人たちから、自身に関する記憶が消えてしまえばいい。代償として、大
切な人たちの記憶からもいなくなってしまうとしても。途切れると不自然になる箇所は、
自分以外のだれかと置き換えておけばいいとまで。
そうなってしまってはさびしいのではないか。もちろん彼女とてそうであるだろうが、
解放感のほうがまさっているため、それを願うことにとまどいはない。
たとえ光がいっさい届かない場所に放り投げられてもいい、そのまま存在そのものが消
えゆくとしてもいいのだと――。
そこまで耳をかたむけていた彼が、自然な動作で、鉄格子のすきまに自身の手を入れて、
「あなたがどこへ行こうとも、必ずそちらへ向かいますよ。たとえ別人に摩り替えられて
いたとしても見破って、連れ戻して、そして逃がしません」
彼女の手をつかむやいなや、そう言いわたす。
そして、彼女も。やはりこちらも自然な動作で、彼の手を握り返すと、
「それはまた、ずいぶんとおそろしいわね」
そうは言うものの、おそれをなした様子は全くない。
「牢番としてはいい気概だと思うけど、わたしに執着するべきではないわね」
なんといっても、死刑囚ですもの。そう落ち着いた調子で言う彼女に、彼は悲しげに、
なにかをこらえている様子で黙りこむ。
彼女は、そんな彼の心持ちを知ってか知らずか、なにかを思いたったように、
「目だつのだって、これはこれで便利かもしれないって思うことはあったわよ」
相変わらず微笑をたたえたままで、
「集中しだすと周りが見えなくなるうえに、考えこむと次々と後ろ向きになってしまう相
手の気をこちらに向けるというところでは、ね」
「ところで、この本のことなのだけど、ようやく物語の佳境に入るところまで読んだの。
あまりにも予想外の展開に胸が高鳴るわ」
不意に彼女がそう告げると、彼が関心を向けて、
「どうなったのですか」
そういえば、彼はこの本を読んでいなかったと思うのだが、話してしまってもいいもの
か。彼女がそう考えをめぐらせていると、彼自身、読もうとは思わないのでかまわないと
言って先を促す。
「最初から主人公だと思っていた彼、実行犯であったことには変わりないのだけど、なん
と、別人の名をかたってなりすましていたの」
その彼自身、物語のはじまったときから、もう本物になりきっていたから、だましてい
るという意識が希薄になっていたらしい。そこを利用して、読者に誤解を与えようとした
のだろう。不自然な描写もあったのだが、読んでいるさなかである者には気づかれにくく、
また、罪を犯す者の心理などろくなものではない、という読者の心理に働きかけたのだろ
うとも。二重のロックが掛けられていたのだ。
「それで、彼に復讐しようとしてた相手側と、主人公の本物が、手をとりあったところな
のだけど、これからどう展開していくのかが気になるところね」
主人公だと思っていたその彼に復讐をするのか、それとも別の道を行くのか。
「残念ですが、その続きを読む機会はやって来ないかと思います」
すると、妙に粛々とした調子で告げる彼。
「あなたはもう、この場に戻ってくることはないでしょうから」
魔女にゆかりのある場所を案内しながら、彼女について語る許可が出たことを、娘であ
る彼女に告げた翌日。
魔女の娘である彼女を、牢の番人である彼が、鍵をあけて出したとき。彼女の腕をとっ
て、自身のもとに引き寄せるようにする彼。そんな彼と彼女の姿は、この場所の薄暗さを
払しょくさせるほどに、きらびやかな舞踏会で手をとりあう男女をほうふつさせる。
しかし、彼は、そんな雰囲気になどかまわず、即座に、彼女の耳もとで告げる。
「時間がありませんので、よく聞いてください。わたくしが、これからしようとしてるこ
とを」
大半の話を終えると、彼と彼女は、地上にある神殿を目指して、足を進めていく。彼女
の手足は、最低限度の歩行しかできないまでに拘束されている。彼女自身は、恐怖を感じ
ているわけでもなければ、不便さに顔をゆがめているわけでもなく、いつもの調子である。
そんな彼女が、不意に口をひらいて、
「もうこうなってしまっては、わたしの本当の目的は果たせそうもないわ。そういうわけ
だからあの約束――」
「分かってます。ご期待に沿えるよう、いいえ、失敗などしないよう、必ず遂行してみせ
ます」
彼は、彼女を遮るようにして、淡々とした述べる。
「さて、ここからはお静かに。要所には見張りがおりますし、この地下につづく扉の前に
も配置されておりますゆえ」
そうして、歩みを進めるにつれて視界にとらえられる、まばゆい光を放っているように
見える出口の、その先へと駆けていく。
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