「さざなみみたい」
流ちょうにそう漏らされた、女の声。彼女のたたずんでいる場所に海はない。それどこ
ろか、青い空など見えず、薄暗く、狭い。ここは、カーナル教団の総本山である神殿の地
下であり、牢屋としても使われている。とらえられているのはこの彼女である。
彼女が声を発した対象は、鉄格子を挟んで向き合っている、牢の番人と思しき青年。彼
のまとっている法衣から察するに、それなりに高い地位にいる神官なのだろう。彼女は、
そんな彼がこの場から離れて行っては戻って来るを繰り返していることから、そのように
感じたらしい。
「それから、わたしがあなたを見たときからの気持ちにも似てるわ。とてつもない安らぎ
を感じてるのに、決してしずまることのない。そんな相反する絶妙さに」
さらりとそう述べる彼女の反応は、常人が想定することが可能な域を超えているだろう。
このような状況のなかだとなおさらだ。どのように見積もっても、立場としては敵である
ともいえる相手に向けられる言葉ではない。
「まあ、わたしが語りだす奇妙な言葉に、単にあきれただけかもしれないとも考えてみた
けどね」
これもまたさらりとした口調で付け加える彼女は、どことなくおどけている。
「でも本当に、この微妙な気持ちを表すための適切な言葉が見つからなくて、こう言うし
かないの。少なくとも、今この瞬間はね」
そして、そう言いながらも悪びれた様子はない。もとよりそうではあったのだが。少な
くとも、彼と会話を交わす瞬間は。
彼は、ひとつ咳払いすると、なかば投げやりに告げる。
「書物だって、まともな内容だといえるものなど、古今東西ほとんど見当たりませんよ。
ですから、どのような言葉を聞いたところで、今さら嫌悪をいだくことなどございません」
それを聞いた彼女はというと、ぱっと火がともったかのようにほほえんでいる。人はだ
れしも、どうかしているものだと思うけれどとも言いながら。
ときにこの彼女、持ち前の順応性と胆の据わり具合からして、取り乱すことがない。と
らえられるよう仕向けたのも彼女自身であり、起こりうる事態を承知していたからでもあ
る。そこは、彼も当初から解していた部分ではある。
それにしてもと彼は思う、彼女は、人に質問するという性質があまりにもなさすぎるの
だと。たとえ聞いてきたとしても、返答を期待しているふうでもなく、相手が答えられな
いのだと知るやいなや、それきり追求しなくなるのだ。
――まったく、命の危機なんて言葉では済まされないことが降りかかろうとしていると
いうのに。
しかし、彼とて、それを告げることにためらいがあり、強くは出られない。対策を練っ
てこなかったという気後れもあるのだろう。
当の彼女は、またもや不意に、
「それにしても残念ね。もうそろそろ処刑されそうな身とあっては、温情を掛けて母のこ
とを教えてくれるかもしれない期待はしていたのだけど」
やっぱりそこまでは甘くはなかったかしら。そう歌うようにして言葉を繰り出す。
表情を取り繕うひまを与えられることもなく、さっと青ざめていく彼。
神をまつっている場所であることを考えると、刑は火あぶりになるのかしら。わたしと
しては水におぼれるほうがいいのだけれど。彼は、意識を半分ほど持っていかれたような
状態でそれを聞いていた。
それでも、生来の頭の回転の速さゆえか、即座にはっとして、
「――っ、そこまで思い及んでたのなら、なにをのんきなことを。自由が利かない身であ
ることはお分かりでしょう」
やや叫んでいる口調。彼自身もそこに意識がまわらなかったのだろう。
「ええ。でもわたし、この世に生まれた時点で自由なんてないと思ってるし、本当の意味
で自分の足で立てるなんてこともないと思ってるわ」
そう返されると、目を見開いた状態で表情を硬くする彼。
「だれかから束縛や支配を受けてたわけではないわよ。むしろ放任されてたぐらいだもの」
彼はなおも表情を緩めない。そのことを気に掛けていたわけではないようだ。
「今だって、行動できる範囲が狭くなって、自分でできることが限られているだけで、条
件はそれほど変わらないわ。命に関していうと、いつどうなるか分からないのはだれだっ
て同じだもの」
おどろきのあまり声も出ない彼を差し置いて、彼女は続けざまに、
「それにね、活発で心のままに生きてるように見えるのなら、周囲の人たちや環境に恵ま
れていたからなの。許してくれるものがあったからこそ、胸を張っていられるもの。だか
ら、教団の人たちにも感謝してるわ」
あなたには感謝というより、それが当然って気持ちが大きいのだけれど。そう茶目っ気
たっぷりに付け加えながら。牢番なのだから、それは全うしないといけないわよね。そう
ほほえみながら。
彼は、ようやく呪縛から脱したかのように、
「なにを……! あなたはその彼らによって殺されかけてるのですよ」
今度こそ叫び声をあげ、言葉づかいは崩れてきている。
それでもなお彼女は落ち着きを払ったまま、
「ねえ。わたし、あなたを初めて見たときから思ったわ。ああ、死がやって来たって……」
もちろん、あなたが人を殺すと言いたいのではなくてね。刑に処される予想はしていた
けれど、こちらの意味ともまた違うの。
「なんと言えばいいかしら。身体的なものではなくて、精神的なほうでね。今までの思い
こみみたいなものから解放されて……、そう、生まれ変わった感じね」
それだけでも収穫があったわ。心から表情をほころばせて。
「……いいですか、よく聞いてください。わたくしとて聖職者の端くれ。ですから、罪悪
感というものも人並み以上にはございます。しかしながら、あなたをこうしてとらえてる
ことについては、間違っていることであると、理性こそ訴えているものの、道徳にそむい
てるとまでは思えないのです。感情に従っていえば、それが当然であるとさえ思ってる部
分もあるのですよ」
さすがにおそれたことだろう。いや、軽蔑したか。そんな念を込めながら告げる彼。
ところが、彼女はひるんだ様子はなく、相変わらずの調子で、
「いいえ、本当に手厚い処遇で、拍子抜けしているぐらいよ」
あなたなんてこわくないわ、そう語りかけるように。
「もっとひどいことになるかもしれないと思っていたもの。そうね、牢に入れられるどこ
ろか、奴隷のような扱いは必至だという予想はしてたわ。秘術のようなものでもあれば、
意思を奪われることだってじゅうぶん考えられるもの」
愕然。彼にとってはその一言に尽きる。敗北したという感覚でもなかった。勘ではある
が、彼女との間に力の差というものがあるとも感じられないからだ。
彼は、彼女と渡り合うためのなにが足りないのだろう、いや、なにが閉じられているの
だろう。自身のなかにある、おそるべきなにかと交渉するかのように想起していた。
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