感極まったとはこういうことであるのだろうと、彼の表情は物語っていた。生まれたて
の赤子と対面したような、はたまた、ようやく生まれてくることのできた赤子の気持ちに
なったかのような。
彼と向かい合ってたたずんでいる彼女も、神気の宿ったような、すがすがしい顔つきで
ある。
それは、この場が、かすかな明かりの電灯を頼りにする以外は暗く、さらには、彼と彼
女を鉄格子が隔てている、牢獄であることを忘れさせるほどに光り輝いて見えるかのよう
に。
しばらく見つめあっていた後、
「まあ、牢番さん、ずいぶんとお若いんですね。と言っても、歳は、わたしより少し上な
のでしょうけど」
そう先に口を開いたのは、その牢に入れられている彼女。高く澄んだ声に、すらすらと
うたうように発せられる言葉。
彼のほうはというと、先ほどからの余韻のためか、まるで拘束されたかのように、身動
きがとれないでいた。むしろ、彼女が声を聞いたことでますます放心したようだ。
「わたしが応対しやすいようにとのご配慮ですね。うれしいですわ。さすがに、同性や、
武術に通じてないかたを遣わしてくださるほど甘くはなかったようですが」
彼女は、そんな彼の顔色をうかがうでもなく、相変わらずの表情と口調で告げた。彼は
聞いているという確信めいたものがあるかのように。
「……ええ。僭越ながら、世話役を務めさせてもらいます。武術に関しては、専門のかた
には敵いませんが、女人を守る程度ならございますゆえ」
彼も負けじと穏やかな面持ちで、流ちょうに応対する。彼は、彼女の予想したとおり、
実際に聞いていたのだ。
「それは頼もしいですわ。よろしくお願いしますね」
かしこまったやりとりはつくりものであるかのような。こうなることは分かっていたと
言わんばかりの交誼で。それが、彼と彼女の最初の出会いであった。
それからというもの、牢に捕らえられた彼女を、彼が見張るという、非日常であるかの
ような日常がしばらく続く。そうではあるのだが、
「ねーえ、牢番さん、いる?」
のん気であるともいえる口調で彼を呼ぶ当の彼女。
「……なにかご不便でもありましたか?」
無愛想であるというほどではないが、あくまで事務的に応じる彼。近くにある宿直室に
いたためか、十秒もしない合間にやってきた。
「ああ、よかった。話し相手がいないと退屈するところだったわ」
彼女のほうも、彼がその場にいるのだと、なかば確信していたようではあった。
それを聞いた彼は、なにを思うでもなく長い息をはき、
「そちらの心配ですか」
そうだ、最低限の生活に必要な設備はそろっているとはいえ、この場は牢獄であり、身
体は自由であるとはいえ、彼女がとらわれの身であることには相違ない。しかし、彼女に、
取り乱した様子は見うけられない。それに、捕らえられた理由というのが、彼女の母親が
罪を犯したからというものであるのだが、その辺りの事情は知らされていないのだろうか。
いずれにせよ、この彼女が、状況を把握していないとも思えないが。
見様によっては、どちらが番人でどちらが囚人なのか計り知れず、彼と彼女の立場が逆
なふうでもある。
「だって、先のことは心配したところでどうにかなるわけでもないでしょう。食事や着替
えはどうしようかと思ったけど、支給してくれるというなら安心よ。だから、後は、だれ
かと触れ合うにはどうすればいいかということ。旅をしてたときは様々な人と会話できた
けど、今はそれも気軽にできそうにないもの」
「旅? それにしてもお連れのかたがいたという意味合いのことは聞き及んでおりません
が。おひとりでよくぞご無事でしたね」
「道を外れて迷ったときには、海辺か川辺に行き着くまで歩いて、そこをたどっていけば、
人のいる場所が見つかるから大丈夫よ」
どこまでもすらすらとした言葉運びである彼女。別の意味合いでの問いかけであったと
思われるが、彼は意に介した様子もなく、
「しかしながら、家の人が心配するのではないですか」
「父はリベラルの職務のなかで亡くなったの。心配するような家族もいないから、それこ
そ大丈夫よ」
彼女は、どのような内容の話であれ、穏やかな口調はそのままであるようだが、心なし
か後半が強調されて聞こえる。
「かの聖女の旦那さまとなりますと、民間の団体では収まりきりそうにないと存じますが」
「父は至って普通の男の人だったわよ。もちろん、母とわたり合えるほどの武術と知力は
兼ねそろえてたけど。たた、そうねえ、人としての器の大きさはやっぱり並はずれてたわ」
「なるほど。そういうものですよね」
「そうそう。わたしだって、なにか特別な力を持ってるわけじゃないもの」
「でしたら、捕らえられたことに対する理不尽さを訴えるぐらいのことはしてもよさそう
なものでしょうに」
「こういうのも旅の醍醐味なのよ。それに、あなたが相手だと話しやすいし、あなたの人
となりはもちろん、姿かたちに、声や口調まで、完全に好みだもの。むしろ幸運だったわ。
……はっ、これは、いわゆる、とらわれの身となったことによって、精神が誤作動を起こ
して、犯人に対して好意的な感情を抱くようになったという状況なのかしら。やだわ、わ
たしってば、こんなに弱い女だっただかしら」
次々とせりふを発しながら、内容に合わせて、わざとらしいほどに抑揚をつけたり、芝
居がかった動作をしたりしている彼女。
「は、はあ、さすが彼女のご息女といいますか、特異な精神をお持ちではあると思います
が」
そんな彼女を、飽きが来ないといったふうに眺める彼。どことなく笑いをこらえている
ふうでもあった。
そう、彼と彼女の会話は、しばらく、というよりも永遠であったとさえ思える間、途絶
えることなく続いていた。
始まる。彼と彼女の、最も幸福で、最も残酷な日々が。これが、世界の命運をも変えて
しまうほどの物種であることを、だれかが予想できる由もなく――。
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