後の祭りといった光景がひろがるなか。夜も明けて、朝焼けの色を呈するはずの空。
しかし、辺り一面は青で覆われていた。まるで、だれかの流した涙の跡のように。風の
さざめきさえなく、しっとりとした気が漂う。
地面には、咲き誇る花のように飛び散っている赤――血だ。深い青に隠されているため
か、凝視でもしなければわかりづらいが、突発的な争いが起こったのだと見える。
なにを掲げて争ったというのか、そして真に裏切られたのはだれであったか。
一夜にして荒廃の様相を呈し、風に吹かれて消え去るように灰燼と化した地。そこは、
ときおり人々が参拝しに訪れるはずの、迷える子羊たちを導くといわれている、教会の敷
地であった。
神に仕える身でありながら背徳の業に魅入られ、惑溺するほどに甘い果実の蜜を聖杯に
掲げたというのか。
そのような状況のなかにおいても、ひとつの影が見える。ぽつりと、ひとしずくの雨を
落としたかのようにたたずむ姿。どうやら生存者であるようだ。
彼の背格好からして、まだ年端もいかないといえるだろう。しかしそれにしては、欠片
ほどのあどけなさもうかがえない。それどころか、全身が血まみれであるにもかかわらず、
痛覚がないのではないかと思わせるほどの無表情さである。まるで、彼だけが、世界から
切り離されているかのような。
彼の名は――いや、呼んだところで応じてくれるのか、聞こえてすらいないこととであ
るが。
「――ミカゲ!」
息を切らせながら駆けてくる音とともに響く、耳をつんざくような、少女の呼び声。そ
の声に、彼、ミカゲは、緩やかではあるが振り向く。声のぬしは、ミカゲの姉、チカゲで
あった。
チカゲは、弟のありさまを見て、血の気の引いたような表情になる。あまりにもおぞま
しい様相であったためか、先ほどの勢いとは裏腹に、声さえ出ないといった状態になって
いると、
「ちがう……。これ、おれの血じゃない」
声を搾り出すようにして言うミカゲ。しかし彼には、ほかになにか告げようとした、重
大な事柄がありそうではあるが。彼自身も混乱しているためか、言おうとしたことを取り
違えたのか。はたまた、物事に順序をつけるという感覚すらないのであろうか。単に、疲
労困憊といった状態であるため、判別することが難儀であるだけなのかもしれない。
身体が硬直した状態からようやく解かれたといったふうなチカゲは、ミカゲの足もとに
目線をやる。
そこには、主に真珠のような玉を連ねて作られていたものと思われる、ぼろぼろになっ
た髪飾り。二枚貝を模した部分の装飾は割れていて、さながら折れた翼である。それらは、
王なる者の非に類するのであろうか。それにはとどまらず、無惨に変わり果てた、彼女の
亡がらまでもあり――。
チカゲは、そのような光景を目の当たりにしただけで、大体の事態を把握したようであ
る。ここに来る道すがらで見かけた惨状は、この弟の仕業であろうことを。それはこの髪
飾りの持ち主を連れ返すべくして奮闘していた跡であることも。そしてその思いはかなわ
なかったことも。
結局のところ、彼は敗北したのであるか。その問いの答えとしては、そうであると同時
にそうではないということも、チカゲには瞬時に分かったようであった。
彼は、立ちふさがってくる者たちを、殺傷ざたになることをいとわず排していったのだ
ろうこと。そしてそんな彼らは、地を這った
ミカゲは、それをおこなった記憶をなくしているのではないかと思われるほどに意気消
沈とした様子であった。
やがて、ミカゲとチカゲのいる場所に、ふたり分の足音が近づいてくる。彼らは、気配
を消そうとしているどころか、自分たちの存在を感知させようとしているようでさえある。
ミカゲはまったく気にしていないようであるが、チカゲは警戒をあらわにしてそのほうへ
と振り向く。
そのとき、彼らは、ミカゲとチカゲのもとにやって来た。足をとめた彼らの格好は、怪
しげであるというよりは、不気味そのものである。常人では理解しかねるであろうつくり
の仮面で顔を隠していたり、同じくそのような服を身にまとっていたりなど、人であると
いうことすらはばかれる輩。
「ミカゲ、チカゲ」
ふたり姉弟の名を呼んだのは、仮面を被っているほうの、女であると思しき者。
「もうじきここには調査隊が来る。われらとともに来い」
ミカゲとチカゲにつけこむためなのか、それとも身を案じているのか。どちらともいえ
ないふうに告げたのは、その女の付き人であると思しき男であった。
ミカゲはというと、彼らのほうを向きはしたものの、それきりである。彼らの姿をとら
えても、とりわけて不審に思っているようでもなく。もとより、だれがどのような格好で
いようと気にとめない性質であるゆえか。
それどころか、その目は、彼らを見ているわけではなさそうで、どこか遠くを映してい
るかのようである。
それにしても、初対面であるにもかかわらず、なぜ名を知っているのかという疑問を持
たないのはさすがにどうであろうか。
「なんなんだ、貴様らは!」
そのとき、肺に思いきり息を吸いこんで叫ぶチカゲ。狼狽した様子で、吠えるように、
かみつくように言う。
「声はよく聞き取れるが、別の音に変わりゆく流れがまったく感じられない。まるで声帯
から発したものじゃないような……!」
彼らの発する声の異質さが気にかかったようだ。
彼らはというと、おどろいているふうでも、おこっているふうでもなく、感心している
ふうでさえある。
「おどろかせて申し訳ありません。声が通るようにと試行錯誤した結果、このような状態
となってしまいまして」
そして、ていねいにそう説明する。どうやら、肉声だとこもる原因となる仮面を外すつ
もりはないようであった。
「ところで、とむらいを希望しますか」
不意に、怪しげな仮面を着けた女が、話を変えるようにしてたずねる。そういったこと
をわざわざ確認する辺り、どことなくずれているのは身なりに限ったことではないようで
ある。
「お待ちください。彼らの個人的な感傷に付き合ってる余裕などないはずです。それに、
今さらとむらいもなにもないでしょう」
そう述べた付き人である男を、チカゲは鋭くにらむ。
「もちろん、全員をというのは難しい話です。しかし、彼女ひとりならどうにかできる時
間はあるでしょう」
仮面を着けた女は、気をとりなおさせるようにして言う。
「ただそれも、霊牌を用意している時間さえございませんが」
ミカゲは、彼女の亡がらになにか思いをはせるでもなく、ひたすらその姿を見つめてい
た。とむらいという行為に意義を見いだしてもいないようだ。
ただ、もしも魂という存在があり、彼女がどこかにいるとするならば。彼女の魂が自由
であるようにと思わずにはいられないのだという。死後の世界というものがどのようなと
ころであるかは知れないが、もう、なにものにもあざむかれることなく、捕らえられるこ
となく、逃げきってほしいと。
キョ、キョ、キョキョキョキョ……。
キョキョ、キョキョキョキョ……。
俳歌を詠むかのように律動的な、この声のぬしはホトトギスである。徐々に消えていく
かのような鳴き声は、夏の終わるトキの訪れを知らせているかのよう。
そんな秋の光景を映すかのように、路傍には、すでに実を結んだ稗が生えていた。
夜は過ぎ去って、空は完全に明るくなろうとしているときのことであった。
喜びか悲しみか、はたまた混沌としているか空虚であるか。
生きとし生けるものそれぞれの思惑がどうであれ、夜明けは等しくやって来るものであ
り、新たに今日と呼ぶ始まりは幾度かめぐってくる。
それは、胚となって胎児となり、成長すると赤子となって誕生する、生命の営みのよう
に。そして死してはまた生まれ変わるという、輪廻転生であるかのように。
こうして結局、ミカゲとチカゲは、この怪しげな格好をした者たちについて行くことに
したのだ。
どのみち行く当てもなく、いずれだれかに捕まってしまうならと、抵抗はしないでおい
たらしい。逃げるための体力も気力も尽きていたことが重なったからでもあるだろう。
本人の意志とは関係なく了承させられる場面など山ほどあるものだ。
そして、いざここから立ち去ろうというとき、ミカゲは急に糸が切れたかのように倒れ
て意識を失った。
それとは別に、はっきりとノーと言えない人々がいる、なんていうことをよくいわれて
いる。
これは、拒否する余地を与えず、了承させる強制力を見えないところで働かせている場
合が大半であろう。一見して口調がていねいであってもだ。たとえ、進言している側にそ
のつもりがなくとも。こうであってはもはや、断る勇気があるか否かの問題ではなくなる。
そう、肯定の意を表す「はい」と同じ意味の、とある救世主の名と似た響きがする言葉、
まるでそれを合唱させようとしているかのように。
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