遠い、遠い彼女のもとへと走り行くミカゲ。
雨が降っており、森のなかは、夜明け前であることもあってか、黒に黒を重ねたかのよ
うな暗さである。ひとすじの光さえすでになく、助けなどもまったくない状態だ。
それでも、彼の足はとまらない。人が通った気配がうかがえる跡をたどっていくしかな
いのだと。どことなく聞こえてきそうな声――悲鳴のするほうへと。
遠くに意識を向けていると、ミカゲの記憶のなかで、いつかの光景がよぎる。
そうはいっても、光景などという字面とは裏腹に、場所も状況も薄暗いところのことで
ある。それほど遠い昔のできごとだというわけでもなく、ミカゲが、教会のこの敷地にや
って来る少し前のこと。とある研究施設に監禁されていたときのことだ。
そのとき同じ部屋にいた、名前さえ知らない女の子。彼女は、だれかに呼ばれて、その
ままそこを出ようとした。ミカゲは、このまま行かせてはいけないと直感して引きとめた。
絶対に死なせないとまで言って。
しかし、彼女は、ミカゲのもとに残らなかった。一度は彼のほうを振り向いたのだが、
自分に言われているという実感が持ちきれなかったようで、たとえそうだとしても、その
ようなことがありえるはずがないと、あきらめのようなまなざしであった。
森の奥の、深いところ。手足を、白い衣装ごと縄で縛られているリゼの姿。槍の刃を地
につけるようにして、そして彼女に突きつけるようにして構えている、ひとりの神官。そ
の前方では、祈る姿勢でなにかの祝詞を唱えている、もうひとりの神官。さらにその眼前
に置かれているものは、慌てて作ったといわんばかりの、簡易なたたいまつ。儀式はいよ
いよ終わりまで近づいてきた。
ミカゲは、ひたすら走っている。雨にさらされていることなど気に掛けずに。それどこ
ろか、これほど激しく降りそそいでいても、気づいてすらいないようだ。
おまけに、身に着けている黒いコートのような服は、どろが付着しているうえに雨水を
吸って重くなっていて、走りにくいはずであり、足を引っぱられているも同然だ。そのよ
うなことにさえ気をまわさずに、ただ間に合えと、彼女のいるほうへと、意識のすべてを
向けていた。
話は再び、過去の記憶へと。とある研究施設の、薄暗い部屋。ミカゲと一緒にいた、名
も知らない女の子が、そこから出ていくべくして、扉をあけてくぐったところ。彼は、扉
が閉められるまでに、彼女のもとへ駆けていった。
しかし、ミカゲは、彼女を引きとめることはかなわず、部屋から出るよりも先に扉が閉
められ、外側から鍵を掛けられる。閉められた扉を、両方のこぶしで叩くものの、ひらき
はしなかった。ひらいたのは、しばらくして、彼の姉チカゲが戻ってきた頃であった。
それからも、出ていった彼女が戻ってくることはもうなかった。
深い、深い森のなか。ミカゲがようやくリゼのもとへとたどりつこうとしたところ。
彼女の名を叫びながら駆けつけていく彼の前に、神官のひとりが立ちはだかる。もうひ
とりの神官は、手にしている槍をかまえなおして、その合間になにかを執り行おうとして
いる。
神官たちは、ミカゲが追いついてくることは予想の範ちゅうであったためか、慌てふた
めいた様子もなく、余裕さえあるようだ。
ミカゲは、かまうことなく突き進もうとすると、その神官に腹をなぐられ、勢いで向か
っていっていた反動もあってか、激しい痛みに耐えられなくなって、前のめりに倒れこむ
こととなる。
その瞬間にも、槍を持ったほうの神官は、縄で拘束されたままのリゼの背後へとまわる。
さらにそのときだ、ミカゲのいるほうからうめきが聞こえてきたのは。
声を発したのはミカゲのほうではない、彼の行く手を阻んでいた神官のほうである。ミ
カゲが倒れこんだと同時に、彼が手にしていた短刀が腹に刺さったのだろう。
ミカゲは、自身に襲いかかる激痛さえ気にかけた様子がなく、体勢を立てなおす。それ
からというもの、彼はやはり容赦なくとどめを刺している。
事態を把握した、もうひとりの神官は、助けに向かう――などということはなく、立て
掛けてあったたいまつを倒して、自分たちと彼らを、火によってさえぎろうとする。雨に
よって消えかけていたそれも、地面に生えている草をつたって、業火のように燃えひろが
っていく。
火に覆われる寸前にちらちらとうかがえたリゼの表情は、隠れきれないほどに真っ青で、
悲痛に染まっていた。
それからもミカゲは、炎にも臆すことなく突き進んでいく――などということもなく、
身にまとっていたコートのようなもので振りはらいながら、彼女のほうへ向かっていく。
さすがに、自身の身体が燃やされるようなことがあっては、助けられるものも助けられな
いと判断したのだろう。雨水を吸っていたその服は、火をのけることに、大いに役立って
いる。
しかし、その瞬間であっても、残りのひとりの神官は、リゼの背後で再び槍をかまえて
高く跳んだ。
さらにその直後、リゼの頭上を目掛けて、槍の刃を振り下ろした。
辺りには赤がひろがる。燃えている炎の色なのか、流れた血の色なのか、この暗がりの
なかでまじったとなっては区別がつかない。
ミカゲが、今度こそ彼女のもとへたどりついたと思われたそのとき。神官に、刃のほう
を向けて槍を突きつけられる。そこには、絡みつくように付着している赤――血だ。
まさか、ミカゲ自身が恋い慕っている、リゼの血液が付いている槍に刃を向けようなど
とは思うまい。神官からはそういった余裕がうかがえる。いっそ槍をくれてやると言わん
ばかりですらある。
しかし、それでもミカゲはとまらず、むしろ勢いづいた調子で向かってくる。
刹那に、鋭い音がすると、槍の刃と柄を繋ぐ根元がゆがんだ。
神官は、まさかという思いでほうぜんとして、持っていた槍を落とす。
ミカゲは、落とされた槍の刃の部分を踏んで弾みをつける。踏みつけたのは偶然であろ
う。彼女の血液が付いたそれを見て、抑止になるどころか、火に油をそそがれて爆発した
かのようにはなったが。
赤が飛び散る、いびつな花をえがくように。血だ、刃物で刺された神官の。彼は、おぞ
ましいまでに目や口をひらけた状態で、滑り落ちるように倒れこんでいった。油断が命取
りという言葉のとおりに。
それとともに、ミカゲの使っていた武器もひしゃげたように折れ曲がった。彼は、その
短刀を、ためらいなく雨のようにぽとりと落とす。もう持ち続けている必要はなかった、
十二人の神官たち全員をあの世に送ったのだから。
そして、ミカゲが追い求めていた彼女、十三人目。降りしきる雨によって、辺りはほぼ
鎮火されたとき。
ミカゲは、はっとわれに返った様子で、それほど遠くない位置にいるだれかの姿をとら
えた。ほとんど焼けこげているが、確かに人の形をしている。
「リゼ、リゼ……っ」
彼女の名を呼びながら駆け寄っているミカゲは、叫んではいるのだが、のどが焼けたか
のようにつかえている。
それよりもと、彼女の傍にやって来ては、そっと抱き起こすミカゲ。
彼女はもう息をしておらず、姿も変わり果てていた。全身が黒く焦げていて、火にさら
されたせいか髪もちぢれており、皮膚までもただれている。さらには、頭上を背後からば
っさりと切られた跡。
「リゼ……、リゼ……!」
なおも彼女の名を呼ぶミカゲ。彼は、彼女を抱きしめたまま離さず、目を離すこともな
い。彼女の形をなぞるようにしてまでいるのだから、もとの姿の幻影を見ているわけでは
なく、状況を認めてはいるのだろう。そして彼女が目を覚ますときは、もう永久に来ない
ことも――。
それでも、彼は、彼女を思って、声にならない声を上げていた。
〜 陽だまりの影法師・完 〜
|