日付が変わってからどれほどかの時間がたった頃。
闇に塗られた空には、さらに月やほかの星を覆うようにして暗雲がひろがっており、窓
の外からの光は届かない。そんな部屋のなか、ミカゲは横たわっているものの、眠りきれ
ないまま、意識を思考の海に漂わせている。
思い返せば、自分は彼女のことを分かっているつもりであって分かっていなかったのだ
と。知っているようで知らなかったのだとも。接していくそのうちに、互いの境界がなく
なっていくような感覚があった。
しかし、互いに踏みこみきれていない箇所もあった。見えない壁があったともいうのだ
ろうか。むしろ、その隔たりをも受け入れていたため、隔たれていることにさえ気が付か
なかったというべきか。
そもそも、訳も分からずにひかれあって、壁をも阻ませずして互いが互いの心臓を、意
図をも通さずしてわしづかみにしていたからか、境界すら境界でなくなっていたのだ。
日差しが強く照りつけるような、雲がふわふわと揺れているような、そんな不均衡な心
地よさに落ち着いていた。
――ミカゲくん。
――うん。なに?
――ううん。なんでもない。
――そうか。またなにかあったら言って。
――なあ、リゼ。
――なあに。
――あ、やっぱりなんでもなかった。
――? うん。
それほど前の日のことでもない、なにげないやりとりの情景は、音もなく遠ざかってい
く。
それとともに、だれかがせわしそうに走る音が近づいてくる。
やがて、いきなりこの部屋の扉がひらかれたかと思いきや、
「――ミカゲ。起きろ」
切羽詰った少女の声。ミカゲの姉、チカゲである。
「リゼが見当たらない」
それだけを告げられると、ミカゲは、伸びをする間もなく上体を起こす。まさか、この
ような時間にひとりで外へ行ったというのか。リゼがいつの間にかどこかへ行っているの
はいつものことであるが、それは朝や昼に限ったことであってうんぬんと。表情にこそ出
ていないが、心のなかでは、目の前が真っ白になるぐらいに戸惑っている。
チカゲは、そんなミカゲの様子を意に介した様子もなく、ただ続ける。
「みんなで寝ようと言ってたときは一緒にいた。さっき、なんとなく目がさめたときには
もういなかったんだ。それと、これ……」
そう言ってミカゲの前に差し出したのは、ぶどうの花を模した髪飾り。
「リゼがいつも肌身離さず持ってたものだが、これさえも置いていったきりだ」
すると、声を出す間もなく驚いた様子で目を見ひらくミカゲ。この髪飾りは、間違いな
く彼自身が作ったものであり、リゼに手渡したものである。
ミカゲは、それを受けとると、常にまくら元に置いてあった、非常持出し袋をとっさに
つかんで駆け出していった。
人々が完全に寝静まり、外灯もほぼ消えかかった、世界が静止を告げる直前の時刻。
そんななか、息を切らせながら、制止も聞かないほどに走っているだれかの影。彼はが
むしゃらに駆けているようではあるが、行く先は決まっているようで、その一点を目掛け
て向かっている。彼、ミカゲの形相は、生死をかけた戦いにでもおもむくかのように切羽
詰まっていた。
そのとき、足場を失ったかのように転倒するミカゲ。視界はほぼ閉ざされており、土は
ぬかるんでいるとはいえ、彼にしてはもの珍しい失態。
ミカゲは、痛みなど意に介していないというふうに、気づいてさえいないというふうに、
素早く起き上がり、泥をはらうことなく再び駆け出す。
そして、教会のほうにたどり着くと、ミカゲは乱暴に扉をひらく。なかには最早だれも
いなかった。
そうではあっても、先ほどまで幾人かがいた気配があり、そこには、自身がさがしてい
る彼女も含まれていることをミカゲは直感する。
ミカゲは迷う間もなくきびすを返すと、足踏みをしているひまさえなく駆け出していく。
次の行き先は決まっていた。
「――ミカゲ!」
彼が次の目的地に向かって走っていると、ただならぬ様子で呼ばれる声が聞こえて、思
わず立ちどまる。声のぬしはチカゲである。今度のは、彼女にしては珍しい慌てかたで。
「いったん部屋に戻ってみたら、リゼどころか、だれもいなかった」
告げられたその言葉に、ミカゲも動揺せずにはいられないが、現実感のない内容であり、
突然であることも相まってか、逆に幾分かは落ち着きをはらっているようである。
「どこの部屋にもだ。まさか、わたしらふたりともが目を離した、そのわずかな合間にこ
つぜんと姿を消したとでもいうのか……!」
いったいなんのために――?
こんな夜ふけに、子どもたち全員が起きてどこかに行くなどということがありうるのだ
ろうか。しかもミカゲとチカゲにだけ見つからないようにと示し合わせてか。
いや、全員ともがそのような離れわざをできるとは思えない。そもそも、ミカゲとチカ
ゲのふたりともがこのような時間に部屋を離れる予定などなかったことであり、だれも予
想できるはずがないのである。
あまりにも不可解な事案が押し寄せているため、チカゲは混乱している。
「俺、リゼがいるかもしれない場所に心当たりがあるから行ってくる。姉さんは、なにか
そのときの手がかりをさがしててくれ」
「……ああ、分かった。気をつけて行ってこい」
ミカゲがそううながすと、チカゲも落ち着きをとり戻して了承の意を示した。
そして、ミカゲはまた走り出し、森の奥のほうへと吸いこまれるようにして駆けていっ
た。
森の奥の、そのひらけたところにある、古びた礼拝堂。
そこの扉から直線に道をつくるようにして、火の点いたたいまつを手にしている神官た
ちが、両側にずらりと並んでいる。
彼らは一様に薄笑いの表情を浮かべている。いや、同じ仮面をかぶっているのだ。暗闇
のなかで火によって照らされているその様相は、怪しさをさらし出されている。
そのとき、なにかきしむような、ものかなしげな音。扉がひらかれたのだ。この、城の
ような豪奢さの残る外観とは裏腹に、暗さのためか、墓場に置かれている棺おけの様相を
呈している礼拝堂の。
同時に、森がざわめきだして、身を潜めていた鳥たちが一斉に飛び立つ。風によって、
どこへと知れず運ばれる、ひとつひとつの葉が移る先は如何に。
扉の先からは、神官たちのなかでも高位に属すると思われる身なりである、数人の者た
ちが、白い影を囲うようにして出てきた。いや、これは影ではなく、人の姿である。白い
髪に、白塗りの肌。白の、死装束のような衣を身にまとっている、小柄な姿。
少女のようではあるが、薄化粧が施されているからか、女といったほうが適切な風貌で
あった。
|