+. Page 075 | 陽だまりの影法師 .+
 あれから次の日、時刻は昼下がりだというのに、今にも日が暮れそうなぐらいに薄暗い。
雨は降っていないのだが、太陽の光が、雲に覆われて遮断されているといったところか。
 しかし、ミカゲには、それに対するうれいはない。広大な草原を駆けていく彼の目的は
そこではなく、地上のほうにあるようだ。
 その彼の足どりは、初めのうちはおぼれていたが、今は軽やかに泳げるようになったと
いったふうである。
 間もなくして、ミカゲは目的の人物を見つける。射しこめる陽光を思わせるかのように
なびく、白い髪。どんよりとした空のしたであるためか、よく目だつ。彼女はそのたびご
とに違う場所にいて、それも一定のきまりがあるわけでもなく、いつもならば簡単にさが
し当てられないのだ。今回はすぐに見つけられたのは、壮大な皮肉であろうか。
 とにもかくにも、ミカゲにとってそのようなことは、とりたてて言うほどのことでもな
く。彼は、彼女のもとへ、一定の速さで駆け寄りながら名を呼ぶ。
「リゼ」
 ミカゲのほうを振り向いた彼女、リゼはいつにも増して不意を突かれたかのような面持
ちである。
「もしかしてまた気配がなかったか。こっそり近づいたつもりは全然なかったんだけど」
 ミカゲはそう言って、いつものように、滑りこむようにしてリゼの隣に座る。その彼に
ついていうと、草を踏みならす音をさせながら駆けて来たのだから、耳が聞こえない場合
を除いては、察知できないということはなさそうであるが。
「足音の大きさはあまり関係がなくて、空気が変わるからなんだと思う」
 リゼは、ひとごとであるかのように言う。
「気配ということだな。言われてみると、分かりやすい個性のようなものは、俺にはなさ
そうだ」
 そして、ミカゲの受け答えに、リゼは首を横に振る。
「ミカゲくんの気配は分かるよ。ほかの人たちより分かりやすいぐらい」
 そう言った後、次の言葉が見つからず、ためらいながらもどうにか続けようとするリゼ。
「ゆがみっていうのかな。だれかがとおった場所はしばらくそういうのが残るの」
「うん、わかる気がする」
 ノイズ、振動、さらにいえば波紋のようなものか。
「人によっても違うんだけど、ミカゲくんのは全然それがないの」
 ミカゲはあっけにとられて目をしばたかせたが、すぐに合点がいったようにうなずく。
「俺も。リゼの隣にはいつまでいても落ち着くな」
 通常、人と密着している時間が長ければ長いほどに不快を感じるものだろう。それは親
と子に代表される、近しい間柄であったとしても。それはその者の、姿かたちも多少は関
係しているのだろうが、嗅覚や触感といった要因が色濃く出ていそうだ。自身のものとは
異なるそれらは違和感としてあらわれてくるものだが、彼と彼女の間には存在しないよう
であった。

「リゼ。今日の敵は相当に強力だ」
 不意に、ミカゲは芝居かかった口調でそう言って、なにか布で包まれた箱のようなもの
を取り出す。リゼは、息をのんで事の成りゆきを見守っている。その箱の中身は、さまざ
まなおかずが入ったもの、弁当であり、なかでも、どことなく赤い色をしたから揚げが大
半の量を占めている。
「唐辛子が採れたから、試しにから揚げに使ってみたんだ」
 食べてみるかとたずねると、リゼは受けてたつというふうに意気ごんでみせた。
 ときに、この赤さからして、唐辛子を混ぜこんだのは少量だとは思えず。甘いものが食
べたいと言いそうな年の頃の少女には、耐えられるからさのものではなさそうでもあるが。
「……おいしい」
 そう述べられたミカゲは、目をしばたかせている。意外だというほどでもないが、から
いという一言ぐらいは出てくるものだと思っていたのだ。からくてたまらないとも言うか
と思い、水も多めに持ってきたらしい。
「からいけど甘みもあって、なんだかいいにおいがするの」
「におい? それは予想外だな」
 もちろん、からさを抑えるために甘味料は加えていたという。さらに、隠し味として、
すりつぶしたトマトを入れていたなどということはすみにでも置いておこう。それにして
も、においなどは、揚げたときの油にまみれて中和されているものではないのだろうかと。
 ミカゲが思いめぐらせている合間にも、リゼは、赤みのまざったから揚げをもうひとつ
口にする。そして彼は、そんな彼女をそっと見やりながら思う。なにかを受けとるという
ことも能力のうちであり、彼女はそれが限りなく上手であるのだと。
 そうはいっても、なにでもというわけではなく、リゼにも食べ物の好き嫌いはありそう
だが。
「そういえば、リゼはなにか食べたいものはあるか」
 リゼは少し考えて答える。
「ないことはないよ」
「なんだ。遠慮することないぞ」
 すると今度は、目線を上に持っていって考えこむ。余程の珍味であるのだろうか、はっ
きりとは答えにくいようだ。
「無理難題でもかまわないぞ」
「ぜいたくかなと思うんだけど……」
「欲しいものは欲しいでいいんだ」
 あきらめさせてなどたまるかというふうに、突きこんでいく姿勢を崩さないミカゲ。
「まあ、ここの暮らしだと、たいしたものは作れないだろうけどさ。でもいつかここを出
て、その先でなら大体のものは入手できるだろう」
「ここを出るの?」
 不安げにたずねるリゼ。
「ずっとここで世話になるというわけにもいかないからな」
 ミカゲは、頭の後ろを手でかきながらあっさりと答えると、なにかを思いついたようで、
「リゼも一緒に来るか」
 ぱっと彼女のほうを向いて聞いた。
「ふたりで?」
 そして今度はきょとんとした表情でそうたずねると、
「姉さんは一緒だな。あと、付いてきてくれるなら、そいつらも全員」
「うん。それなら、いきたい」
 リゼは、ミカゲの答えに、はにかみながら応じた。
「それで、リゼの食べたいものってなんだ。もしかしたら、似たようなものならここでも
作れるかもしれないし、うまくすれば、今のうちに練習のようなことができるかもしれな
い」
 どこまでもよどみのない調子で話すミカゲに、リゼは困惑しながら言う。
「ここにあるものだけでも作れるの」
 そう告げられると、今度はミカゲが戸惑って目をしばたかせる。
 厨房のほうには、ぜいたくというほどの食材はない。それどころか、規模の小さな商店
でも簡単に入手できるものが、ここでは不足していることとて珍しくない。そのことはリ
ゼも承知しているはずだ。
 なにかの謎かけであろうか。ミカゲはしばらく考えてみたが、まったく見当がつかない。
「分からない。降参だ」
 そうだと分かるやいなや、潔いまでの勢いで白旗を掲げるミカゲ。リゼは、そんな彼の
調子に、ややあきれた様子を見せながら、
「ないしょ」
 と、それだけを言い放った。さらにミカゲはというと、
「それじゃ、とりあえずなにか作って当ててくしかないな」
 などというものだから、ますますリゼの開いた口がふさがらない、そのような状況を作
り出す結果となった。
 それよりも、ミカゲは、今回のリゼはよくしゃべるというところに焦点を置いていた。
会話することにも慣れてくれたのかもしれないなと、しみじみとした面持ちであった。

 夕暮れ時になると、雲に掛かった夕陽が緩やかな光をともす。しかしそれは、恒久とは
ほど遠くあり、今にも消えかかりそうな心象を想起させるものだ。
 いつもの草原のやや向こう側では、敷きつめるように植えられたひまわりがひろがりを
見せている。そんな黄色い海のなかからは、少女の楽しげな声も聞こえてくる。
 彼女は、やや小柄な身体を不規則な方向に走らせており、夕陽の色に染まった白い髪を
なびかせている。そのすみで、彼女の影法師であるかのようにたたずんでいる、黒い髪を
した彼は、彼女をただ見つめていた。
 これが本来の姿であろうと思わせるぐらいに自然な光景であった。それとともに、まる
でこの世のものとは思えないぐらいにあやしい光景でもあった。

 その夜、もうすぐ消灯の時間だというのに、ミカゲの目はさえていた。寝る体勢には入
っているものの、どうしても目を閉じる気になれないでいるようだ。
 ほかの子どもたちがいざ部屋の明かりを消そうとしたときも、彼らは、なんとなくでは
あるが、ミカゲの様子を察しているようであった。なかには、ミカゲに、子守歌でも歌っ
てあげようかと、のぞきこむようにしてたずねる者もいた。ミカゲはかすかに笑って、自
分で眠れるから気にしなくても大丈夫だと言っていたのだが。
 電灯が消されると、明かりは窓からもれてくる月の光のみであり、それは神秘的という
よりは、人の目をくらますという幻術のようであった。
 ミカゲは、なおも目がさえたままである。眠るという概念すら忘れているかのように。
すでにここが夢のなかであるかのように。しかしながら、彼自身、ここに存在して、この
光景を目に焼きつけているということを、決して覆すことのできない事実として認識して
いた。
 彼は生きていた、映し出している姿が真実かどうかもわからないこの世界で。
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