ミカゲは、いつもならば厨房で調理か皿洗いをしているか、子どもたちと遊んでいるか
だ。そのいずれもしていない空き時間には必ず、外のどこかにいるであろうリゼのもとへ
と向かう。
しかし今は礼拝堂のなかにいて、牧師のひとりと向かいあっている。祈りをささげにき
たわけでも、ざんげを告げにきたわけでもない様子で。ミカゲは、教会の近くを通りかか
ったときに、この牧師と出くわした後、ほぼ成りゆきでやって来ていた。
牧師は、壇上で、どこまでもにこやかな表情でミカゲを見やっている。ミカゲは、あま
りいい予感がしないと思いながらも、一応は聞いておこうと考えたのだ。
「――われらが神カーナルは天に座しておられる。空想上の存在などでは決してないのだ」
初めに告げられたのは、そんな言葉であった。ミカゲとしても、そこには疑念をいだい
てはいない。世界が誕生したきっかけや、今でも存在してその営みがなされているわけと
て、不可思議なことであるには変わりない。そうであるから、むしろ神は存在しないとす
ることの証明のほうが難しいのだ。
牧師は、ミカゲがうなずいたのを、満足そうに見やって続ける。
「カーナル様は、いつでもわれらを見守っておられる」
ミカゲは、とりわけてなにかの感慨を示しているようでもないが、あくまで粛々とした
言葉を、ただ静かにきいている。
「そして、慈悲深きカーナル様は、人と人が争い、傷つけあうさまに心を痛めておられる
のだ。いつしか、人々の心が救われることを願っておられる」
祈るような姿勢で、強調して述べる牧師。しかしながらミカゲへの効き目はかんばしく
ない。
「ならば、神はなぜ世の中をこのままにしているんだ。もしくはこんな世界を作ったんだ。
これでは救いどころの話ではないと思うが」
ミカゲの突然の問いかけというよりも訴えに、牧師は一瞬、ろうばいしたような表情を
うかがわせたものの、気を取り直して続ける。
「それは神による試練だ。人の心を鍛え、そこで確立した決心が本物であるか見極めてお
られるのだ」
厳かというよりは威勢を張った調子で告げた。
「敢えて制限のあるなかで徐々に足場をひろげていくことに関しては構わない。だが、事
情がどうあれ、本人のあずかり知らないところで試練を課していい理由になどならないだ
ろうに」
それさえもばっさりと断ち切るように言ってのけるミカゲ。
「現状、試練ではなくて、自分より弱い者をいじめて楽しんでるだけだよな」
たとえるなら、走者を故意に転倒させるか、それ以上のひどい仕打ちをしているような
ものか。
それにしてもこの牧師は、この教会に身を寄せている子どもたちがここに来るまでに受
けた仕打ちのことを承知しているはずなのだが。それでもなお、神の試練がどうだと説く
神経があるものなのかと、ミカゲは怒りを通りこしてあきれた様子で息をついた。
牧師はあまりの言われように言葉を失っているようである。その合間にもミカゲは、会
話の主導権を乗り取ったようなあんばいで続けて言う。
「なにも知らない人間同士を、誤解ややるせなさで争わせて、心の奥底では不本意ながら
も傷つけ合わなければならない。そんな状況など、心を鍛えるどころの話ではないと思う
が?」
ミカゲは、自身が一方的にしゃべっていることに気がついてか、牧師にも話を振るよう
にしてみた。しかしながら、ますます押し黙らせる結果となり、先ほどまでの威厳をも崩
させることとなった。話に乗りかかってこないのならばと、さらに続ける。
「だれかがなにか不審な様子を見せたら、事情を考慮する想像力を働かせれば、いざこざ
をある程度そぐことはできると思うけど」
それすらも神が人を試している事項のうちに入っているかもしれないと思うと、気がそ
げるというものであった。
「ところで、人の振る舞いや反応なんて、自分の状況を映し出すにすぎないものだよな」
それがそのまま映し出されているのであれ、まったく逆に映し出されているのであれ。
「特に親と子か、それ以上に近しい間柄だと顕著だろうな」
ミカゲはただただうれいを帯びた表情で、ぽつりとぽつりと言う。
「それは、神と人との関係にもいえるんじゃないか」
そうだ、人は神の態度のあらわれでもあるのではないか。それも、神から人への影響の
ほうが、比べようもないほどに強いはずだと。
神が自身の心根をかえりみないともなれば、いじめを根絶やしにできる可能性など絶望
的であろう。奴隷を設けて、彼らから摂取する風潮とてなくなるはずがないのだ。
仮に愛のつもりだとしても、受けとる側がそう思えない限り、それは成立するはずもな
いというのに。そんなことが分からない神であるどころか、人が苦しむ様子を見て楽しん
でいるようでは。どうりで人間にも、好きな子をいじめる子どもがそのまま大人になった
ような者たちがいるわけだと。
とにもかくにも、サディストは嫌がられたら失格だということだ。
こうしてミカゲがかんばしくない方向に思考を展開している合間にも、牧師は怒りを蓄
積していっていた。
「そのような物言い、神はお怒りであろう。今にも天罰がくだろうぞ」
牧師は、泣く子も黙るどころか、大人でさえおそれをなす調子で述べる。そうでありな
がら、ミカゲはひるんだ様子もなく言い返す。
「神にしてはずいぶんと短気だな。しかも自分が気に入らないことをされたら当たり散ら
すなど、底が知れるというものだ」
これは、人と人、特に親と子の関係がどうだという以前に、人に対する神の接しかたに
問題があるだろうと。ほとんどの場合、人は、神の映し鏡であるうえに、してもらったか
知っているかしている以上のことを、他人に対してできるということはないであろう。な
にが起こってもどっしりと構えていられる胆力など、自身は愛されていたと思える記憶が
ない限り、付くわけがないであろうに。傷つけられたほうはもちろん、損害をあたえたほ
うとて罪悪感にさいなまれているかもしれない。これでは、互いが互いを傷つけあうだけ
ではないか。
ミカゲがそう思考している合間に、逆にひるみかけた牧師のほうが、すぐに反論の言葉
を見つけて述べ出す。
「自身に起こったことはすべてその本人の責任なのだ。カーナル様を侮辱するなど言語道
断」
ミカゲのほうは、それでも言葉に詰まる様子もなく、むしろあまりにもありふれた反論
だと思ってさえいるようで、さらに反論を返す。
「そういう状況であるということは、神は無能であるか、やはり人に対して嫌がらせをし
ているということの裏づけだろう」
ミカゲとしては言い負かそうとしているつもりはなく、思ったことを淡々と述べている
だけなのだが、かえって牧師の対抗心をあおることとなった。
「事は因果応報なのだ。行いに対するむくいは必ず返ってくる」
そうだとは言われても、ミカゲはなおも納得する様子はなく、この言葉にさえもあきれ
返っているようで、
「一は全、全は一」
そうだったなと、確認するように言う。これは、教会の者たちの間ではなじみの深い教
義であり、いつかミカゲたちも聞かされた内容であった。ほかの子どもたちはほとんど意
味を解していなかったが、ミカゲは瞬時にくみとり、今でも強く印象に残っていた。
牧師は、確かにそのことは読みあげたが、今はそれとなにの関係があるのかと、毒気を
抜かれた様子でミカゲを見やる。
「そうだとすれば、むくいが本人にだけ返ってくるなど、おかしな話だ」
牧師が再びまゆをひそめたところで、ミカゲはそれを意に介した様子もなく続ける。
「そもそも、罪なんていうものは、人と人の関係から生まれた化学反応のようなもので、
次から次へと増えていってるし、人ひとりが賄いきれるものでもないだろう」
ちなみにこのとき、徐々に利息が増えていく、借金の制度を連想していたことはまた別
の話だ。
このねずみ算のように増えていくものが喜びのたぐいであればどれほどいいかと、そん
な思いをめぐらせながら。
ともあれ、なにかのできごとに対して責めを負うべき者がいるとすれば、それはすべて
の人類であり、同時にだれのせいでもないというわけだ。
そもそも、責任なんていうものは、裁くための言い訳ではなく、自身の言動による、そ
の結果に備えるということのはずで。納得するまで考え抜いて起こした、もしくは、その
場ではそうするしかなかったという、自身からの承認。ようは後悔しないためのものだ。
だからこそ、自身の心にも余裕があり、起こったことの影響が及んだ他者への配慮も自然
とできるのだ。言い換えれば、それこそが、自身や他者への思いやりであった。その営み
さえ阻害する現象の数々はどう説明するのだろうか。
「とにかく、どうすれば人類が救われるかという話だったな」
もしも神のその思いに偽りがないのであれば。能書きだけの存在ではないのならば。そ
して人々の信仰によらずとも、もっといえば宗教というものを作らせるまでもなく、だれ
もが生きやすい世にするつもりがあるのならば。
「神が浄化を施すか、自身で引き受けるかすればいいだろうが」
その言葉が引き金となったのか、牧師は平静を装ってはいるが、今にもミカゲの口につ
かみかかりそうな形相だ。
ミカゲはというと、完全に牧師のほうを意に介した様子もなく、長い長いため息でもは
き終えたかのような表情である。いくら聖典といえど、人の手によって書かれたものであ
る以上、完全無欠であるはずはなく、書いた者の主観が入っているものであり、改訂に改
訂を重ねてきたのならなおさら垢が付くものではあるが、これはひどすぎるだろうと。
「一方的に切るようで悪いけど、疲れてきたから、話が終わったのなら部屋で休んでくる」
ミカゲが察したのは、これ以上、話をしてもなにもないということであった。状況とし
ては、交渉が決裂したといったほうが当てはまるだろうか。
ミカゲは、返事を聞くことなく、背を向けて出て行った。
彼女に出会ってからというもの、色の感じられなかった世界に光が戻ってきたかのよう
に思えたものだが、やはりまだどことなく暗い。相変わらず陽の光を浴びて輝くステンド
グラスを目にしながら、彼はそう思った。
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