+. Page 053 | ディルト・リーゼフ編 .+
 うっすらと雪が積もり、かすかに電灯の明かりがともされている、リーゼフの都の広場。
そこでは、ふたつの影が、同じ速さで、同じ方向に移動している。足場の悪さを思わせな
いほどの俊敏な動きだ。うちひとりは、この暗がりのなかでもかすかに浮かびあがる銀の
髪。もうひとりは、辺りがまったくの暗闇であったならば姿をとらえることができないほ
どの黒い髪に、黒い服。影として映し出されているわけではなく、ふたりなのだ。両者が
同時に相手へこぶしを突き出すと、
 ――バチッ!
 火花を散らすよりもはでな音をたててぶつけ合った。その瞬間、ふたりは同時に間合い
をとる。受ける打撃を抑えるためというよりは、このあまりの激痛におどろいたといった
ふうである。
 両者の姿勢は合わせ鏡のようであり、体格も同等。違いがあるのは顔つきと、そこに浮
かべている表情。
「待ってくれ。なにがどうなってるんだ。それに、あなたはいったい……」
 そう発したのは、事情をのみこめていない様子の、銀髪の彼――レキセイ。それをよそ
に、黒髪に黒衣の彼のほうは明確な戦意をもって立ちはだかる。
 黒い男が、かすかに白くて生暖かい息をはくそぶりをしたかと思いきや、
「手のうちをべらべら話すなと言われそうなとこだが……、かといって口どめをされてる
わけでもない、答えてやる。なにも告げぬままだというのも公平ではないだろうからな」
 落ち着いているふうではあるが、いかりの含まれた、低くかすれたような声。
「その代わり、貴様が襲いかかってきたときは話を中断して、しばらく眠ってもらう」
 理にかなわないその言葉の割りには敵意が見うけられない調子だ。
「……分かった。しない」
 なにか引っかかりをおぼえながらも、そう答えるレキセイ。そうとしか言えなかったの
だろう。
 そして黒い男は語る、裏の世界に身をおとした生涯のいきさつを。
「俺たち姉弟は、とある研究所から逃亡してきた。なんの研究かははっきり分からんし、
教えてもくれなかったが、公にできないような、ろくでもないことだというのは想像がつ
く。俺たちもずいぶんとひどい目に遭った。彼らにとって、あくまで実験の対象であって、
人間扱いされたこともなかった。むろん、自殺に追いこんだりしないよう、ときには甘い
ものを差し出して機嫌をとっていたが」
 内容の割りには淡々とした口調であり、その彼らに対する憎しみは感じられない。客観
視を通りこして、物語に登場する人物の説明をしているようでさえあった。
「うそのようだろう。俺も、自分のことながらに陳腐な設定だと思う。だが事実だ。ほか
に言いようがない」
 レキセイは、うそだとは思っていないという意を示すために首を横に振り、
「それで、どうしてそんなところに……?」
 どうしてもたずねたいといったふうではないが、思わず問いかけるレキセイ。黒い男は、
質問をはさまれても特になにを思うでもなく、あっさりと答える。
「ちょうど物心がついたころか、家に怪しいやつらがやって来た。子ども心にもそう思っ
た。だが、両親は、俺たちをそいつらに引き渡した。大事な用があるから、しばらく一緒
にいられないというようなことを言って。俺たちは了承するほかなかった。まあ、両親は
いたって普通の人間だったし、家庭もごく平凡な雰囲気だったから、子を売りに出すよう
な感じではない。おそらく、やつらが、カーナルがどうのこうのとでも言ってそう仕向け
たんだろう」
 レキセイは、激しい鼓動にさいなまれながらも、どうにか口をひらいて、
「ご両親は……後悔してるとか、今でも愛してくれてるなんてことはないだろうか」
「そこは分からんな。さんざん泣いたりはしただろうし、自責の念には駆られてたりして
るかもしれんが」
「ご両親のことは……うらんでるのか……?」
 黒い男はそう問われると、今度は答えの代わりに、聞こえるほどの大きなため息をつい
た。故意にではなく、自然な成り行きのようであった。
「聞きたいのはそこか。とんだ浅はかな目のつけどころだな」
 そう言うやいなや、レキセイのほうへ脚をけりまわす。再びわき起こった戦意によって
というよりは、一喝するといったような動きだ。
 レキセイは、それを受けとめるべく防御の姿勢をとろうとする。しようとするも、彼も
とっさに、黒い男のほうへと脚をけりまわした。
 両者とも胴をけられて後ろに倒れる。再び走る激痛。受けた打撃は、黒い男のほうが、
レキセイよりもやや軽く済んだ。彼が先に立ちあがると、
「確かに事態は許容できたものではないが、長いものに巻かれてやり過ごしただけの、た
だの人間をうらんでも仕方があるまい。それによって俺がどう感じたかなんていうのも、
こっちの問題でしかない。ついでに言えば、俺たちがなにをされたかなど大した問題では
ない。さっき言ったことは前置きに過ぎん。そのせいでというべきか、おかげでというべ
きか、あることに思い至った」
 レキセイを見おろすかたちでそう述べる。
 レキセイは、どうにか立ちあがると、彼を見すえて話の続きを待つ。続けて黒い男が口
をひらけると、
「生まれたばかりの人間はだれしも悪意などなかったはずだろう。人間同士のすれ違いに
よって増幅されたものか。いや、もしも皆が満たされてて余裕があるというならば、互い
の個性を尊重できるはずで、悪事になどに走る必要もない」
 そこまで述べると、次の言葉を紡ぐための息継ぎをして、
「つまり、ここは欠陥だらけの世界、またはていの悪いにせものだろう。不完全であるの
は構わんかった。だが、程度がはなはだしい。そして、その元凶はカーナルと呼ばれてる
神にあることを。能書きばかりで無能な神でもなく、世界そのものも完全であるというな
らば、人間の認識力をふさいで、それによって生じる動向を楽しんでるサディストだ」
 心がえぐられる瞬間の記憶を呼びおこされたかのように、みるみるうちに表情がこわば
るレキセイ。
 その合間にも、黒い男のこぶしが再びレキセイをめがけてくる。彼もこぶしで応じるべ
く構える。しかしながら、遅れをとったためか、一方的に黒い男のこぶしがレキセイの腹
にくいこむかたちとなる。
 レキセイは、後ずさるようにしてよろけたが、どうにかその場に立っている。その姿を
確認した黒い男は、結果に満足すると、さらに話を続ける。
「人が研究に没頭する理由はなんだ。功績を得ること、そして真理に近づくことで得られ
る納得、つまり幸福感を得るため。それだけなら事は足りる。しかし、非人道的なことま
でして満たされようとするなど、欠乏の激しい証拠だ。仮初めなどではない本物の神で、
人へのいつくしみが確かなものであるならばこんなことにはなるまい」
 しゅっ、しゅっ。黒い男は、区切りをつけながら話す意もこめて、レキセイに向けてこ
ぶしを繰り出す。積極的に攻撃しようとしているわけでもなく、なにかをうかがっている
といった様子だ。レキセイも、こぶしでそれを受けとめる。
「さらに悪いことに、おのれの心を満たそうとして、真理をめぐって争う人々も出てくる。
そんなもの、だれしも明確には分からんはずだが。だれがなにを知ってるだとか、だれが
どうだましてるだとか、腹の探り合いから始まったんだろうな」
 びゅん! さらに、レキセイに向けてけりまわす黒い男。レキセイも、脚を突き出して
受けとめる。
「全くの真実や完璧を欲する者からすれば、うそはおろか、偶然の間違いをも許容できな
いほどであって、そのような言動に対して腹を立てる。すると、それを求められたほうに
も不満が生じる。そうでなくとも、意思の疎通をすべて正確にとるなどほぼ不可能だ。け
んかの原因であるというわけだ」
 なおも続く、レキセイと黒い男の攻防。戦っているといった様子はなく、意思を伝達す
るための補助のような役割となっている。
「そんな状態で、だれが自身の価値を信じられる? 罪悪感にさいなまれることすらある
だろうな。ただでさえ、初めはだれもが無力だ。やればできると気づけるのですら運であ
るときてる」
 レキセイもなにか話そうとするものの、攻撃に応じるのがやっとのようである。
「そうして、おのれの価値が目に見えて分かるなにかを欲しがり、さらなる競争の始まり
となる。そうなれば、思いやりや助け合いなどのゆずり合いの心を忘れて、対価を求める
あまり、取り引きなどによるゆすり合いになるというわけだ」
 ときに、両者は常に構えが同じであるため、つぶし合いのような状態である。
「すれ違いにすれ違いを重ねた結果、憎悪や悲嘆はとりとめもなくひろがり、収拾がつか
なくなっている。本来ならば優しいはずであったもの――人をあのように仕向けた創造神
とやらに一泡ふかせんことには気が済まん」
 ひとしきり話し終えたらしい黒い男は、跳躍して後ろに下がる。
 レキセイもなにかを答えようとするも、言葉が見つからないようである。それこそ仮に
想定しただけの物事にとらわれているだけであろうと述べる力も、彼にはないのだ。同時
に、否定できる根拠もなかった。
「そこでだ。貴様は、その現状を打破するための手だてとなりえるそうだ。だから連れ帰
ってこいとのことだ」
 そう聞いて困惑するレキセイ。いったいだれがそのようなことを言ったのだろうと考え
るのが精一杯であるようだ。
「あの方が貴様のどこを買ってるかは知らんが、とにかく付いてきてもらうぞ」
 そう言うやいなや、黒い男は、地をけって宙で身体を縦に回転させると、レキセイに向
かって両足でけりかかっていった。
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