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 早朝のオーディルの雰囲気は気に入っている。
 都心であるにもかかわらず、どこか清浄な空気感と。その都を形成する、やや控えめな
歯車の音が。胸の奥をすっと通り抜けるような心地よさを漂わせている。

 人通りが疎らであるのは、まだ夜が明けている最中だからというだけでなく、もとより
入国の審査が厳しいことが要因なのだろう。
 小国でありながら大陸のほぼ中央に位置し、さらには聖地フュステとも隣接しているの
だから無理もないとは思うけれど。
 しかし、わたしが申請したときは、それほど難しくなく通ったという印象だった。
 これといって立派な理由があったわけでもなく、何年か前に両親に連れて来られたとき、
なんとなく心が惹かれる景観であったからでしかなく。そして独立する地の候補として下
見をしたいという程度のものだった。

 ともあれ、オーディルの都が、世界のなかでも高水準の発展を遂げていることは間違い
ないだろう。
 特にメディアの部類では群を抜いていると思う。
 事実、建ち並ぶビルには大型のビジョンがぽつぽつと据えられている。
 今ここに立っている場所の近くにある、特に大きなビジョン。そこには、可憐な衣装を
着て、マイクを片手に歌っている少女の姿が映っていた。
 彼女の名前はメリーといって、今をときめくアイドルだといわれている。
 明るい曲調でありながらも、どことなくもの悲しい歌詞が人気の秘訣だろうともいわれ
ているそうだ。
 あれで本業は美食タレントであるというのだから、何とも精力的な話だと思う。

 ぼんやりと立って眺めていると視線を感じ、はっとして歩き出す。
 どちらにしても、あまりゆっくりしている時間の余裕はないことだし。

 そんなに変な格好はしていないと思う。
 ミントグリーンの色をした服の上に、緑を基調とした柄物の、足首の辺りまで長さのあ
るワンピース。
 やや地味めであり、高級な素材というわけでもないけれど、絶妙に意匠が凝らされてい
る、しっかりとした生地であるように思う。
 今の季節にはちょうどよい色合いであり、それほど珍しくはないはずだ。
 いや、どちらかというと――。母親ゆずりの、この光沢のある赤毛が目立つのかもしれ
ない。腰の辺りまで長さがあることも要因のひとつであるのだろう。
 赤と緑のコントラストだと目に付きやすくもあったと思う。

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 酒場ユーロポロスの朝は早い。朝から食事に来る客人もおり、七時に店を開けるため、
六時には支度を整えて準備を始める。
 まずは掃除からだ。ほこりが舞うため、調理を始めた後ではできなくなる。
 毎晩、店を閉めた後にも掃除はしているそうだが、念には念をというわけだ。
 食べ物を扱っていることもあり、こうした店では清潔感がものを言う。

「お、やってるやってる」
 店の入り口のほうから、どことなく肝の据わった女の人の声。
「ジェラさん。おはようございます」
「おはよ。ところで例のあれは?」
「それなら、昨日から熟成させていたものがあちらに」
 厨房のほうを向いて、中身の状態を保つために蓋をしたフライパンに目をやる。
「お、さすが。それじゃ、今日も大量に仕入れておいたからヨロシク」
 そう言ってジェラさんが差し出したのは、箱のなかに大量に積まれたトマトだった。

「それはそうとナユカ、今朝も都を行きかう人たちの視線を集めてたんじゃないの」
「ええ……。今日着てきた服が、この髪の色と相まって目立ってしまったみたいで」
「あはは、違うって。あんたの顔や雰囲気がってことよ」
「そんなことはないと思いますが」
 確かに、この赤くて艶のある髪は目立つのだろうと思う。しかし容姿が優れているとは
思わない。
 顔つきは、男っぽいとまでは言わないけれど、女らしくもないと思う。つまるところ、
これといった特徴があるわけではないのだ。
 性格もそれほど明るいというわけでもなく、行動も特に目立つようなことはしていない
……少なくともあの市街地の外では。
「自分では分からないと思うけどね、気取ってないからこそ人の良さがにじみ出て、却っ
て魅力が増すということもあるんだ。完全な、人間的な美しさとでも言うのかね」
 うんうんと、ひとり納得といったようにジェラさんは頷く。
「そういうものなんですかね……」

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 正午が過ぎてしばらくすると客足も遠のいてくる頃だ。
 以降、注文が来るメニューを予測しながら、差し支えがない範囲での下準備などをする。
 明日の分に使うための下ごしらえも例外ではない。
 わたしは、いつものようにトマトを手に取って洗い、すっと包丁を入れる。

「いやあ、やっぱり評判いいわあ。ナユカ特製のトマトソース」
 不意に、隣で食器を洗いながらジェラさんが言った。
「ええ、ありがたいことです。このお店やジェラさんたちのことを含めて運がよかったの
だと思います」
「何言ってんだか。おかげでこっちも大儲けさせてもらってるからウィンウィンよ。それ
にナユカだってどんどん上達してきてるし」
 頬をかきながらそういうジェラさん。喜んでいいのだとは思うけど……。
「ええと、本格的に作りはじめてからまだ二ヶ月もたってませんが」
「数ヶ月もすれば女が変わるのにはじゅうぶんよ。日に日に変わっていくなんてことも珍
しくないし」
 それは、まあ分かるような…………。

「そうだ、それ終わったらもう上がっていいから」
 そして、おもむろにそう告げるジェラさん。
「いいのですか。マスター……リカルドさん、まだ来てませんが」
「いいっていいって。あいつ、昨日もまた閉店時間が過ぎてるのに営業しててさ。客がま
だいるからとか言って。それで疲れて寝すぎてたとして、ナユカの顔が見れなくて残念が
ったとしても自業自得なんだから」
「残念がりはしないと思いますけど……」

 挨拶もしないで帰るのは、多少の気が引けるなと思った。
 ここはもともと、店主であるリカルドさんが、ジェラさんとふたりでいろいろと切り盛
りしていたのだという。
 そのうえで朝から晩まで店を開けていたというのだから、ふたりともいつ休んでいるの
かという疑問はあって。
 営業のほうは交代でしていたそうで、忙しい時期にはバイトを何人か雇ったりもしてい
たとは言っていたけれど。
 わたしを正式に雇ってからは、お互い気まぐれな時間で交代するようになったと、笑い
ながら言っていた。
 ちなみに、わたしの勤務する時刻は、早朝から夕刻前に定められている。
 わたしが住んでいる場所の立地のことも含めての配慮であるのだから頭が上がらない。

 旧市街ディート――、オーディルの都が栄えるよりもずっと以前から存在していた街。
 かいつまんで言えば、開発の際に取り残された場所であるという、まあよくある話だ。
 豊かであるとは言いがたく、多少の不便さもしいられるため、住民たちもある程度は荒
んでいるか、どこかしたたかである場合がほとんどだ。
 それでも、一定の秩序というものは存在しており、基本的には気のいい人たちであるこ
とには違いなくて。生活に慣れさえすれば、ある意味では安全圏であると言えなくもない。
 わたしがディートのほうに住まうことを決めた理由は、そうした気風を無意識に感じ取
ったからなののかもしれない。
 何だかんだで家賃が安く済んで、都会の喧騒に揉まれるよりは性に合っているからだと
いうのが決め手ではあるけれど。

 そう話したとき、ジェラさんは慌てながら気に掛けて。
 自分の部屋で一緒に住むことまで勧めてくれたのだけれど、当然そこまでしてもらうわ
けにはいかず。
 いざ独立しようというときに締まらない話でもあったわけで。
 しかし、それ以外の好意であるなら無下にするのは忍びないというものだ。

「分かりました。ちょうど買い物をして帰りたかったところですし、お言葉に甘えて上が
らせてもらいます」
 そう言って、わたしは従業員用の部屋に入ろうとする。
「ああこら。食材なら持って帰っていいから、日が暮れないうちに帰りなさいって。あの
市街地、ただでさえ治安が悪いんだから」
「それではいくつか買い取ります」
 するとジェラさんは、やれやれと言わんばかりにため息をついたようだった。

「あ、開封した後のコルクはもらっていきますね」
 エアガンに詰めて発砲するために。そう最初に言ったときは、当然ジェラさんも苦笑し
ていたけれど。
「ああ、またあの悪ガキか。懲りないねえ」
「勝負ならついてるって、いつも説明してるんですけどね」
 その……、特に荒れている区画では不良たちが屯していたり喧嘩が絶えなかったりする
のはご愛嬌ということで――。
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