+. Page 009 | 前編:魔女の娘 .+
 その日の夜に彼が夢に見たのは、硬く角張った石畳の天井や壁で固められている、ほの
暗い地下。彼の目の前は鉄格子で隔てられている。そう、ここは彼女と過ごしていた場所。
牢の番人である彼と、とらわれの身となっている彼女の、相いれるはずのないふたりの間
に流れる、奇妙な親愛と信頼。
 彼の知る現実と違っているのは、その先に彼女の姿がないということ。さらに、牢のな
かにいるのは彼のほうであるということだ。高位の神官であることを表す、白を基調とし
た服は、豪奢な獄衣を思わせる。鉄格子には開き戸となっている箇所は見当たらない。鍵
穴も付いていないようだ。
 彼はその場にうずくまる。なにか事を起こそうとしているわけではないが、絶望の色に
染まっているふうでもない。ここに出口はない、その事実を受けいれたまでだった。

 かすかに揺らめく燭火をかたわらに、彼は、夢のなかであってもまどろみながら、入信
してまだ日が浅かった頃のことを追想する。
 彼には、仕えていた女性がいた。慕っていたといっても過言ではない。彼女は、中年で
あることを思わせないほどの見目麗しさとは裏腹に豪胆であった。部下であるだれもがあ
きれ返りながらも、彼女の奥底に潜む優しさを感じ取った、彼らの忠誠心は厚かった。ま
た、彼女も、彼らと過ごすときを楽しみとしていた。
 一日の務めを終えた後も、また共にする毎日が続くのだと、だれもがそう信じて帰途に
つく。彼女もそうであったに違いない。実際に、彼女と彼らの日々は不和もなく、満ち足
りたものであった。
 しかし、そのような日常はいずれ崩壊してしまうもので、ある日を境に彼女はこつぜん
と姿を消した。
 それからというもの、彼らは離散した。現在は、それぞれが新たに与えられた役職に就
いているが、業務に関することのほかには言葉を交わすこともない。
 実を言うと、彼女は亡くなったのだ。さらに、そのことを知るのはこの彼のみである。
 このとき以来、彼は、感情をなくしたかのようにうつろな状態で過ごしていた。まとっ
ていたものは絶望のみである。世界そのものが終わりを告げたかのような――。
 そして今も、同じことが起ころうとしており、彼の心はそんな闇にとらわれている。

 それに伴ってよみがえってくる、彼女のもとに就いていた頃の、あの記憶。いつだった
か、彼女は、彼に向けて述べていたことがあった。
 お前は思い立ったら一途で、実行力もある。そのうえ、困難をも打ち破る意気もある。
だが、いちばんは世話焼きなところだな。人好しがすぎるぐらいだから、利用されないよ
う、上手く立ちまわることも覚えておけ。
 要約するとこのような事柄である。まさか。彼の反応は否定であった。特に今はそれを
ひしひしと感じている。
 壮絶な効力とともに下された判決とその現状に立ち向かうどころか、手出しもできない
状態にある今を。自身が、あの娘を見殺しにしようとしているも同然であるのだからと。
 いっそのこと、幾日かを一緒に過ごした者にさえ、情をいだけないまでに心をなくして
いれば。そうであれば、苦を感じることもない。事が収まれば、いつもの、平凡ともいえ
る日々のなかに戻れる。
 そう考えてはいても、どうしてもあの娘のことを諦めるなどできないのだ。理不尽の上
に理不尽を重ねられたような状況におちいっても、だれかを責めることもなく、彼につい
ては信用までしている、あの娘のことが。
 彼には、あの娘の姿かたちはもちろんのこと、しぐさや表情、口調や言葉づかいなども
鮮明に思い出せる。この、夢のなかにいる状態であっても。
 希望などないに等しい。同じことの繰り返しにしかならないであろうことも、痛いほど
分かりきっている。それでも、そんな彼女を思うたびに、次こそはと……。

 この空間に時間の概念は存在しないのかもしれないが、長い間そうしていた感覚から、
ふと思い立ったとき。彼の目前で、かすかに白く輝き、幾つかの粒子が散りばめられたよ
うに降りそそぐ光。それは人の姿をかたどっていった。外観は女性のようであるが、全体
はあくまで白く、顔の判別はできない。彼女であるのか、それとも彼女なのか。あるいは、
彼女ではなく、彼女でもないのか。いずれにしても、彼にとってはひどく慕わしく、心を
ひかれてやまない存在として映っていた。
 彼はなにか言葉を発しようとしたが、声が出てきてくれそうな様子はない。その合間に
も、白い女性が口をひらくしぐさを見せる。
 ここから出してあげましょうか。そのような意のものが、甘い響きをもって彼に伝えら
れる。表情こそうかがえないものの、聖母のようないつくしみをまとっていると分かるそ
れで。
 彼は不敵そうに、それでいて柔らかくほほえんで、
 ――いや、それなら手をわずらわせるまでもない。
 そう告げて、すっと立ちあがり、目を閉じて気を集める姿勢をとる。そうして身構える
やいなや、勢いをつけて鉄格子のほうへと向かっていく。
 それほど硬いつくりではなかったからなのか、はたまた夢のなかであるからなのか、堅
ろうであったはずのそれは、一度ぶつかっただけでたちまちひび割れた。あと幾度かすれ
ば突き破ることも可能であるだろう。
 彼はどうにか立っているといった状態で、息は多少あがっているが、動くための力は残
っているようだ。再び集中して構えの姿勢をとり、鉄格子を壊しに掛かる。それを幾度か
繰り返してようやく一部にくぼみができた。
 やがて、通ることができるほどまでにひらけると、ひざをついて息を整えようとする彼。
白い女性はたたずんだままで、挙動にも表情にも変化はうかがえないが、彼を案じる念が
見てとれる。それを察した彼は、顔を上げて、大丈夫だという言葉の代わりに、あどけな
いまでの笑みを浮かべて見せた。
 そして、立ちあがって檻をくぐり、彼女の前まで来ると、
 ――おかげで決心がついた。行ってくる。
 その瞬間、彼女の姿は、後ろで白く輝く光に溶けこむようにして消えていった。それに
相まって、光は明るさを増す。もはや、この空間は薄暗くなくなっている。
 瞬く間にして姿を消した白い女性。彼としては、彼女になにかをたずねたり、話したり
したいことがあったようだ。それでいて、彼から悔いは感じられないどころか、どことな
く晴れやかである。彼女は思いのほか近くにいる、また会うことになりそうだ。不思議な
がらも、そんな確信に近い予感があったからなのかもしれない。
 彼は、このまぶしい輝きを放つ光のほうへと、一瞬の迷いもなく駆けていった。
BACK | Top Page | NEXT