+. Page 085 | 雨降る夜の亡霊 .+
「ミカゲ、ミカゲ!」
「気を失ったようだな。先ほどまで気を張りめぐらせてた分、力が抜けたか」
「体を酷使したせいでもあるでしょう。脚の骨が折れてるようです。わが社の医療班に診
てもらいましょう」

 こうして、ミカゲとチカゲは、結社エアリスの一員となった。
 世界じゅうの人々から信仰を集めているカーナル神、その神への反逆の意を示してつく
りあげられたのがこのエアリスである。当然、後ろ暗い任務を遂行することもあり、その
ための訓練は必須の項目であろう。
 ミカゲたちは、入社してから早速その訓練にはげんだ――などということはなかった。
 社員のなかに、戦闘や隠密などの、技術や知識を伝授している者たちはいる。しかしな
がらそれは義務ではなく、あくまで希望する者たちが、受けたいときに受けるものである。
 社長が任務を言いわたすこともあるが、絶対に従わなければならないというわけではな
く、請け負った後の成功か失敗かの結果も問わないとのことだ。
 極端な話、なにもしなくともかまわないということであり、おのおのが思い思いのまま
でいられるというわけである。
 ミカゲはしばらく、社内に設けられている病室で療養していた。チカゲも、彼に付きき
りで寝泊りしていた。

 寝台の上であお向けになっていたミカゲは、徐々に目をひらける。
 その目線の先には、今いるはずの病室とはうって変わって、清潔感とは程遠い、薄汚れ
た天井。辺りを横目でうかがうと、隣の寝台に姉チカゲの姿はあった。
 しかしその光景は異様であった。チカゲは、鎖でつながれていて、体の自由を奪われて
いる状態であり、全身に傷をも負っている。そしてミカゲもそのような状況に置かれてい
た。
 ここは夢のなかであり、過去の記憶でもあった。実質的に強制で連れてこられた、怪し
げな研究所にいた、あのときの。
 人々はしばしば、あらゆる欲望の捻じ曲がったそれらを凝縮した、支配欲というものに
よって、心を支配されがちである。それはまるで、もはやここにはいない神仏にすがるか
のように作りあげられた、偶像でしかないものを崇めさせられているかのような。
 それによって危害をこうむるのはいつも、おもに年端もいかない子どもたちである。
 絶え間なく、別の部屋からも聞こえてくる悲鳴。
 ミカゲは助けに向かおうとするも、体を動かすことができない状態である。それに抗お
うとすればするほど、彼の身体の傷も増えていく。血までもじわじわと流れてくる。辺り
が暗いためか、赤ではなく青い色をしているようにも見える。
 チカゲは叫ぶ、憎悪をこめるかのように肺に息を吸いこんで。
「貴様なんぞロリコンでもサディストでもない。おのれの欲望のために作り上げた花に群
がって蜜を吸うだけの、ただの弱虫だ」
 それは、目の前に存在しているおとなたちに向けてというよりも、どこか遠くへ向かっ
てうったえているふうであった。
 その瞬間、情景はまず天辺のほうから欠けていく様を映し出し、雲をえがくようにして
かすんでいくと、退散するかのように遠く離れていく。

 闇がひろがるなか、次に現れたのは蓮の花。ぽつりぽつりと、暗い水面に浮かんでくる
ように。
 大半は静止しているが、かすかにゆらゆらと揺れていたり、波紋をひろげるかのように
揺らしていたりするものもある。
 その光景に彼は、とあることに思い当たる。底に根を捕らえられていて、このなかから
抜け出ることができないのだと。
 ならば自身のこの手で引っぱり出そう。彼はそう考えたのだが、それはかなわないこと
であった。
 まずはじめに、彼には手がない。いや、それどころか体すらないのだ。実体のないもの、
完全にただの視点でしかない。
 仮に、花々をすくい出せる手段があったとしてもだ。そうなってしまっては、蓮は生き
られなくなる。
 尊厳を奪われた状態で、どこかへ行ける自由もなく、命までも握られて。蓮に限らず、
生きとし生けるものはすべてそのようなものなのだろう。
 蓮の花は泥水のなかにあってこそ美しいものなのだという。苛酷な環境にあっても清廉
さを保っている姿がいじらしさをさそうのだろう。
 しかし彼は、そのような理屈に価値を見い出せないでいた。輝かせたいというのならほ
かにも方法はあるはずだ、結局のところいじめる理由を付けたいだけなのではないかと。
 人はつらさを乗り越えて強くなれるだの、痛みを知って優しくなれるだのという理屈も
同じことだろうと。どのような大義名分を掲げようとも暴力は暴力でしかないと。
 このような世界にする神などいらないという激情が彼を襲う。殺したいとは思わない、
存在を消したいのだと。
 そして牙をむいたと思ったその瞬間、神ではない別のだれかに刺さっていたという惨劇。
 襲う、襲う。なにともつかない、激しい感情が。

 あ、ああ、あああ……。ああああああああ……!

 彼は、自身の叫び声とともに、はっと目を覚ます。
 まず先に目に映ったのは、清潔に保たれた白い天井。つい最近に見た内装、ここは結社
エアリスの傘下にある病室のなか。今度こそ現実だ。そして彼の隣の寝台には、
「ミカゲ?」
 彼ミカゲの叫び声によって目を覚ましたらしい、姉チカゲの姿があった。
 もちろん、チカゲは、今は無傷の状態であり、体の自由を奪われているなどということ
もない。
 ちなみに、ミカゲは療養中のため、包帯を巻かれた状態ではあるが。こちらも当然、体
の自由を物理的に奪われているなどということはない。
 チカゲは、ミカゲの様子をうかがっている。彼としては、さきほどの夢によって恐怖を
感じているというよりは、いざ自身が叫んだときの声、本当に舞台などで演出するような
あの音声そのものなのだなと、そちらのほうに感嘆しているようである。
 ミカゲは、はっと気がついたように、
「ごめん。叫んでしまった」
「別に。今さらだれかの叫び声でおどろきはしない」
「あ、うん。そうか」
 そして、チカゲの言っているその意味を解しているからこそ、それだけしか応えられな
かった。
「こわい夢でも見たか」
「そんなところだ」
 チカゲはそう聞いてみたものの、ミカゲ自身が答えるつもりがないのだと判断すると、
途端に興味を失ったかのように目をそらした。

 それはそれとして。そう思いめぐらせてから、ミカゲは、再び姉チカゲのほうをうかが
う。
 思い起こされる惨状。今度は教会で暮らしていたときの。
 チカゲは、弟ミカゲがそのようにしたと知っても、とりわけて態度が変わった様子はな
かった。彼女いわく、核爆弾に火を点けて自爆したような者たちのことなど知ったことで
はないとのことだ。
 常に仮面を着けているあの社長がいうには、めぐりあわせがよろしくなかったからだと
のこと。だれかやなにかが悪いというよりも、神に属する存在たちによる不手際であり、
たとえるならば調理に失敗したようなものだと。人が食材だとすれば、縁とは、それらが
織り成す味のことなのだと。ただ、その料理人たちも、作りかたを知らされないまま作ら
された可能性もあるとのことだが。
 そして社長の付き人によると、あの惨事は、神たちの行儀のなさのせいなのだという。
ミカゲならば、多少の組み合わせの悪さをものともしないだろうし、それなりの仕上がり
にもできただろうと。しかし彼らは、調理中である彼にちょっかいをかけて、手元を狂わ
せてしまえば我関せずといった態度で知らないふり。あまつさえ、彼らにとっては、一食
分を無益にした程度の被害でしかなく、また別のところに行って食べ漁ってくるだけであ
るのだろうよ。もしこのようなことを繰り返していては、幾多の命が涙し、不幸が積み重
なることとなるではないか。そうなれば、やつらとて自爆するだけであろうに云々。
 それからしばらくして、このままだと話がとまらなくなるだろうからと、社長はどうに
かその付き人をなだめて引き連れていったのであった。

 ミカゲとチカゲが起きてから間もなくして、彼らの部屋の扉がたたかれる。
「おい、すごい声がしたが大丈夫か。入るぞ」
 そしてやって来たのは、ミカゲの治療の担当をしている医師である。彼の表情は張りつ
めていて、とりわけて具合の悪いところなどないとは言いづらい雰囲気であるが、
「夢見が悪かっただけです。どうもお騒がせしました」
 ミカゲは淡々とそう告げた。すると医師は、
「なんだ、そうか。それはたいへんだったな」
 力が抜けた様子でそういたわった。
 どうやら、こういったことには慣れているようだ。それはそれで、ほかにもなにかに苦
しめられた者たちがいるということであり、歓迎できることでもないが。ミカゲとチカゲ
もそれを思ってか、露骨に眉をひそめる。
「そうだ。なにかあったら遠慮なくそこの通信機で呼んでいいし、医務室のほうにもいつ
でも来ていいから。まあ、用がなくてもそうしてくれて構わないんだけどね」
 医師はというと、先ほどの表情とはうって変わって、軽快な調子でそううながす。
「仕事が入ってたら応じれないこともあるけど、ほかの医師や看護師は何人かいるから、
気が向いたやつにでも話しかけてやってくれ」
 ミカゲとチカゲも先ほどの表情とはうって変わって、かくいう医師をぼうぜんと見やっ
ている。まるで異次元の様子を目の当たりにしているかのように。
「じゃ、僕もそろそろ就寝に入るから戻るよ。おやすみ」
 そして言いたいことを言い終えるやいなや、やはり軽やかな調子で退室する医師。
 その後も、ミカゲとチカゲは、気抜けした状態から抜け出せないままでいた。これまで
に受けてきた扱いとは違う、謎の応対に把握が追いつかなくなっていたのだ。
 この場は、世間でいうところの悪の組織が所持している建物の内部であり、ここにいる
者たちもその一員であること。それを失念させるにはじゅうぶんなほどであった。

BACK | Top Page | NEXT