+. Page 079 | 陽だまりの影法師 .+
 暗い森のなか、だれかが走っている音。がさがさなどといった生易しいものではなく。
葉っぱがこすれるさまなどという、切羽詰ったという言いまわしでは足りないほどであり。
鬼気迫っているといったほうが適切か。
 息を切らせながら走っているのは、ひらひらとした黒いコートのような服に身を包んで
いる、黒い髪をしたミカゲであった。その足に迷いはなく、目的の場所は決まっていた。
 走る、走る、脚がちぎれそうなほど。感覚すらなくなり、まるで脚そのものがもとから
なかったかのように。
 森の奥の、ひらけたところにある、古びた礼拝堂のような建物。そこに着くやいなや、
危機を察したミカゲは、城のように荘厳な外観のそれがかたなしになるぐらいに、乱暴に
扉をあける――が、なかにはだれもいなかった。
 しかし、先ほどまでこの場にだれかがいたという形跡は消えていなかった。再び外に出
てみると、もやがミカゲに張りつこうとする。振り払おうとしない彼。そのもやは生ぬる
いようで、自然に発生した霧ではなさそうだ。
 ミカゲは、ゆがみの気配をたどって再び走りだす。

 教会の先にひろがる草原、なかでもその教会に近い位置にて、なにか祭りが執り行われ
ているようであった。囲うように置かれたたいまつが煌々と闇夜を照らし、風がはやした
てるようにして吹く。
 しかし今、世界は静まっているはずの時刻であり、人々も夢を見ているはずである。
 そうであるというのに、夢よりも夢らしい現実の光景。ほむらの囲いのなかには、教会
に住まう子どもたちの姿。彼らの瞳は、光が灯っていないかのようにうつろであり、まる
で操られているかのようである。
 彼らのなかでも年上である、炎にも負けじと赤い髪をした彼が、ゆいいつ半眼でにらむ
ようにして、どうにか正気を保っているように見える。しかしながら、それも強靭である
といえるほどのものでもなく。
 やがて、白い衣装に身を包んだ女を乗せた山車とともに、神官たちが現れると宴が始ま
る。
 ほむらよりもさらに紅の丸々とした月と、無数の星が、ぎょろぎょろとした目玉のよう
に、黒い幕を張ったような空からのぞく。

 ――宵にのまれて酔いヨイヨイ、ドレミの音頭で踊れ奴隷。

 そんななか、騒々しいほどの足音と、激しい息切れの音。そしてなによりも、暗闇のな
かでかすかに照らし出されただけでもはっきりと分かるほどの、鬼気迫った表情。
 そうして開幕の合図とともに遅れてやって来たのは、黒い髪でありながら黒い服をまと
っているミカゲ。そのようないでたちのためか、夜に溶けこんでいるかのような様相であ
る。しかしながらそれは、のみこまれているといったあんばいではなく、彼と同化してい
るかのようで。
 やや遠くのほうに、ミカゲと向き合うようにしてとまっている山車。
 その上には、妙にはっきりと映る白。はためく白い装束と、白いベールに包まれた姿。
それらは上質な素材ではあるのだろうが、着飾る役目を果たすどころか濁しているふうで
すらある。全身が白で、顔が隠れているため、だれであるのかは判別がつかない。
「リゼエェェ……!」
 ミカゲは、空を切りさくような呼び声をあげて、彼女のもとへ一直線に駆け寄ろうとす
る。
 そこで、山車の側にいる神官のひとりが、手で風を切るような動作をとって、
「カーナル様のおぼしめしだ。ミカゲをとめるのだ」
 神の意向というには程度が低く俗っぽい言葉で、自らは手を下さず、子どもたちに指示
する。
 カーナル神の名を出されては逆らうわけもなく、普段は発揮されないであろう連携をも
ってして、猛進するミカゲに立ちはだかる。
 すると、ミカゲは、彼らを押しのけてでも、方向を変えずに突き進んでいく。一瞬のこ
とで、それも予想のつかなかったことであり、彼らはなすすべもなく吹き飛ばされるかた
ちとなる。ミカゲのほうも、目の前のことは目に入っておらず、遠くの彼女のほうにしか
焦点が合っていない。
 神官たちもあっけにとられていたものの、すぐに気を取りなおして、
「なにをしている。とらえろ」
 そして、彼らも立ちなおして、ミカゲにじゃれつくかのようにして群がってくる。
 しかし、それさえもあっけなく振り払われることとなる。まるで虫を相手にしているか
のように。
 ミカゲは、ときに彼らの手をとって踊るかのようにするが、踊りというには一方的に引
っぱっては投げ出すというありさまであった。天と地がひっくり返ったかのようにさかさ
に飛ばされる者までいた。
 子どもたちは、まさかという思いで、目をひらいてミカゲを見る。いつも自分たちをい
い気分にさせてくれて、それもほぼ完璧なかたちでもたらしてくるものだから、彼らは心
のどこかで、自分たちこそが彼を支配していると思い込んでいてさえいたのだろう。
 そうはいっても、快楽を与えるということは、そうするだけの精力があるということで
もある。相手の求めるものに応じて与えるとなると、ある種の器用さが必要なのだ。しか
もそこには、察するという過程も含まれているということであり、手のうちが読まれて形
勢が逆転しかねないということでもあった。
 そのことに気がまわらない彼らは、ミカゲなら目を覚ましてくれるかもしれないと、一
筋の期待を抱く。それが命取りであるというところにも注意がいくことなく。とにもかく
にも、彼らは完全に操られているというわけではなく、意識はあるようだ。
 神官たちにいたっては、ミカゲを思いのとおりに動かせないとは知りつつも、まさか子
どもたちをのけるとは思っていなかったらしく、気の毒なほどに動揺している色がうかが
える。
 一方、ミカゲは、瞳に色が映っていないようであるが、明確な意志でひたすら目的の場
所に向かっている。子どもたちに対する疑念をいだくでもなく、彼女をとり戻すことだけ
を念頭において。
 これではまるでどちらが眠っているのやら起きているのやら分からない状態だ。
 しかし、精力と器用さ、判断力を兼ね備えているうえに迷いがない者を相手にすれば、
勝敗は決しているようなものだ。たとえ何人が束になって掛かろうとも。
 迷いがないということは無駄がないということでもあり、普段のミカゲの、たわいない
ことを口走るのどかさとの違いが、さらに恐怖を感じさせているのだろう。ミカゲの動き
は、あらゆる制限をなくしたかのように速い。まるで肉体から解き放たれて怨霊になった
かのように、圧倒的なおどろおどろしさで躍り出て迫ってくる。
 もはや、ミカゲのなかでは、人と物の区分けが存在しておらず、行く手を阻むものは一
律に、のけるべき障害物でしかない。それは彼に向かってくるもの、女や子どもであって
も例外ではない。公平であるといえば聞こえはよさそうであるが、どのようにとり繕って
も無差別な扱いであるとしか言いようがないだろう。
 それどころか、ミカゲの目に映るものすべてが、ただの概念と化していた。彼がかつて
その者たちにいだいていた情さえも、彼を呼びさますようなものではなく、ただの視点で
しかなかった。まるで、物語のなかの人物を見ているかのような。
 風が、教会の建物のほうに向かって吹く。よほど強く吹きつけたのか、色とりどりに彩
られたステンドグラスは、世界の終わりのような音をたてて割れ、何百年ときらびやかさ
を誇ったそれはあっけなく崩れ落ちていった。
 この場をとりしきっていた神官たちはもういない。彼女を乗せた山車ごとどこかへ場所
を移したのだろう。
 この世界との接続が切れた状態である彼とを、ゆいいつつなぐ手段となりうる彼女を。
 やがて、火も教会のほうへと燃え移る。長い歴史のある信仰や、そのときどきの思い出
まで、なにもかもを燃やしていく。聖火のようだというにはあまりにもおぞましく。
 立てかけられていたたいまつも倒れて、その炎は、その場に残っているあらゆるものを
のみこもうとする。気が動転している子どもたちであっても容赦なく。肉に火を通すよう
な無慈悲さで。
 子どもたちの絶望したような絶叫が、亡霊のようなおどろおどろしい声が辺りを覆って
いる。ミカゲには、その声は届いておらず。聞こえていないわけではないだろうが、それ
さえもただの現象でしかなくなっているのだろう。
 ミカゲはただひとり、ふとした瞬間に襲いかかってきそうな炎を気にする様子もなく、
ただ歩みを進めていく。光を宿していない瞳で、ひたすら彼女の姿をさがして。
 彼を覆っている煙は、かえって彼を色めかせ、美しいまでに着飾らせているふうでさえ
あった。
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