+. Page 038 | とある彼の過去 .+
「…………はい?」
 普段は落ち着きをはらっている者が急に出したような、間の抜けた応答。遠くからの、
くぐもったような、男の声。通話機からのものだ。
「だから、僕が預かってきた、ノーゼンヴァリスであった襲撃事件の生存者のことだよ。
彼が自力で日常生活を送れるほどに落ち着くまでは屋敷にいて、書物の出版をしながら暮
らしていく予定だから君らにも会えないだろうけど、それ以降はそっちの様子を見に行く
ぐらいはできるだろう。復帰するのは、彼が独り立ちしてからだ。それまでの間、留守の
ほうはよろしく」
 通話をかけた当人は、世間話のような調子でそう告げた。
「……っ、あなたねえ、それは下手をすると誘拐罪ですよ!?」
 相手のほうは、どうやら、そのほかの事柄は問題としていないようだ。
 通話をしている者たちは、上司とその直近の部下といったところであるが、慣れ親しん
だような気安さもうかがえる。
「そうだとしても、彼の生存を知られるわけにはいかないからね。そして、この屋敷なら
簡単に見つからずに済む」
「確かに、十代前半ほどの少年となるとなおさら世間の目にはさらさないほうがいいでし
ょう。しかし、あなたにしてはなにか取り乱してませんか」
「まあね。襲撃されたのは、ノーゼンヴァリスの都市や町、村まで全土。犯人たちにとっ
て、そこに、存在してては困るなにかがあるということだ」
 かく言う彼の口調は落ち着いたものではあるが、先ほどの余裕はうかがえない。
 そして、続けざまに、
「そこで、浮かんできた推測がある。突飛だとは思うけどもしそれが当たってるなら、あ
の子の両親は……」
 ここまで話して言葉をのんだ。
「…………」
 相手のほうも、重たい息をはいたが、取り立てて詮索しようとも思っていないようだ。
 そして、話は戻り、
「それで、その彼は、身体を動かすこともままならず、しゃべることもできない。そのう
え、食べ物がのどを通らないと聞きましたが……?」
「うん、ショックは大きかったみたいだけど、精神自体に問題はないんだ。ただ、仕方を
忘れてて、生まれたてのような状態であるだけさ」
「はあ、先のことを考えてくよくよしないとは思ってましたが、さすがに楽観すぎです」
「あんな環境のなかで生き延びるのは、偶然どころか奇跡であっても無理だと思うよ。本
人に素質がない限りはね。つまるところ、仕方を教えれば、できないことはなにもないと
いうことで、今とまったく反対の状態にさえなりえるわけだ」
 ここまで話して、彼らの間には、なんともいえない沈黙が流れる。
「……話は分かりましたが、彼を喚起させるなにかがないと難しくありませんか」
 そして、相手のほうが、諦めたように次の話を持ち出した。
「いや、見こみはあるよ。なにしろ、目を覚ました途端、僕を見て絶望してたようだから
ね」
「それのどこに見込みがあるんですか。思いきり嫌がられてるじゃないですか。と言って
も、あなたのことですから、そんななかでこそ逆に解決の手がかりを見いだしたんでしょ
うけど」
「そういうことだからさ。そっちのほうはたのんだよ。みんなにもよろしく言っといて」
 さらりと、そうことづける彼。留守というには長い期間であるのだが、問題にしている
ふうではない。
「……分かりました。しかし、できるだけ早めに戻ってきてくださいよ。あなたが抜けた
穴の、ごまかしを続けるのは困難なんですから」
 彼のそんな応対にも慣れているためか、相手のほうもあっさりと了承した。
 以後、通話を終える。

 時をさかのぼること数時間。
 彼は、数日前に壊滅された街なかで倒れこんで以来眠っていた。
 彼の夢のなかの視界は白濁としていた。本来はまったくの白であるのかもしれないが、
覚せいしていない合間は、どちらにせよそういうものなのだろう。
 不意に、彼は、耳の奥でなにかが鳴っている感覚を受ける。どことなく涼しげでありな
がら柔らかな音。
 だれかが呼んでいる。だれかが求めている。声のような音。
 彼は、それに引きこまれるようにして、この場から遠ざかっていく。
 彼が目を覚ましたと同時にそこに映したものは、どこかの居間であった。城の内装ほど
の豪奢さでもないが、民家のものにしては華美な。
 辺りには、くどくない程度に置かれている装飾品の数々。際立っているものといえば、
ふちをれんがで囲われた暖炉。テーブルと長いす。
 彼が横たわっているのは、長いすの上であった。それも、なんの変哲もない寝台よりも
さらに寝心地のよさそうな。
 彼は少年といった容貌だ。表情こそ乏しいが、目をぱちぱちさせているにしてもすさま
じい速さで繰り返している。身体は横たえたままであるにしても、いきなり異界に放りこ
まれたかのようにうろたえているふうである。
 間もなくして、だれかが駆けてくる音が聞こえてきた。
 そして、彼の目に映るものが変わる。先ほど駆けてきた者、歳は二十代前半といったと
ころの青年がいる。
「やあ、目が覚めたかい?」
 どことなく涼しげで、柔らかな、青年の声。
 しかし、少年は、言葉の抑揚の区別がついていないようである。
 ヤア、メガサメタカイ。
 ただ、そのような、音という概念としての認識。そう、耳の奥でなにかが鳴っている感
覚なのだと告げられたほうが、少年にとっては納得しやすいことであろう。
 少年は、穏やかな表情をたたえている青年の顔をしばらく眺めていた。これすらも、記
号としての認識でしかないのかもしれないが。
 そして、急になにかに気がついた様子をうかがわせるやいなや、少年の表情はみるみる
うちに青ざめていった。
 なぜ、まだひとがいる? ひとりきりだと思っていたのに。
 そして、なにを望まれている? これでようやく眠れると思っていたのに。
 明確に言葉でそう意識したわけではないのだろうが、少年の表情はそのような気を発し
ている。
「さてと。それじゃ、しばらくは一緒に生きていくことになるから、よろしくね」
 青年は、少年の心持ちを知ってか知らずか、相変わらずの面持ちで、彼の両手を握って
身体を起こさせながら言った。
「そうそう。僕はラフォルっていうんだけど、君の名前は?」
 ラフォルと名乗った青年は、それ以降もしばらくなにかを語っていた。話を向けられた
当の少年に伝わっているか否かは分からないが、ラフォルは気にかかることなく続けてい
た。
 ひとしきり話し終えると、ラフォルは、いったん少年のもとを離れ、書斎へと向かって
いく。
 そして、そこに入るやいなや、受話器を手に取った。
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