Prologue
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 きっかけは本当に些細なことだった。
 都心からの帰りの途中で、いつもとは違う道を通って行こうと思い立ったのだ。
 どこへとは決めていなかったのだけれど、道を西に外れた辺りに木霊の森と呼ばれてい
る場所があると聞いていたため、そこへ向かってみることにした。聞いていただけで一度
も足を踏み入れたことがなかったのは、この近辺には引っ越してきたばかりであったから
だ。

 森の中はうわさに違わず、白くて淡い光の玉が浮かんでいるかのように映って見える。
なるほど、確かに木霊のようだ。木の葉と木の葉の間から漏れてくる、日の光が乱反射し
てできたものであるとのことだが。
 葉はまさに青々としているという表現がぴったりだった。色はもちろん緑であるのだが、
透明感があるためか、かすかに青みが掛かっているふうでもあるのだ。穏やかに吹く風も
相まってか、清涼さが強調されているのだろう。
 さらさらと、風にあおられた葉と葉がこすれ合う音がする。そうともなれば、まるで海
鳴りのようであった。わたしは、波にさらわれるかのように歩(ほ)を進めていく。
 木漏れ日の光も強さを増して、無数の白い玉がわたしの傍まで降りてきた。それはまる
でどこかへといざなわれるかのように。

 しばらく歩いてきたその先には、木の幹を背にして腰掛けている人影。もたれていると
いうよりは、一体化しているようにさえ見える。彼が木の精霊だと告げられても、気のせ
いだとも言いきれず、それどころか納得してしまいそうだ。
 彼の姿は、近くで見るまでもなく鮮麗に映し出されていた。陽の輝きさえかすむような
神々しさと、森よりもさわやかな自然を思わせて。
 やがて、彼は、読んでいた本を閉じて立ち上がり、こちらを向く。それは、わたしがこ
の場にいると分かっているうえでの動作のようで。交わる目と目。定められていたと言わ
んばかりの、緩やかな邂逅。
 そのときからだった、わたしの運命が大きく変わったのは。そしてその事実に思い至っ
たのは――長い長い時が経ってからだった。
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